江戸城大奥

江戸城大奥は、正徳四年(1714)絵島・生島事件で有名ですが。同じようなスキャンダルが他に三件あるんです。 谷中の延命院事件(八つぁん六年二月・谷中延命院)。下総中山の智泉院事件。それに、雑司が谷鼠山の感応寺事件です。 大奥は本来、表と奥が一体であったのですが元和四年(1618)春日局が大奥法度を定めて、男子禁制にしたのです。
(智泉院事件)
下総中山法華経寺の子院に智泉院が在ります。日蓮宗の住持日啓は子沢山の生臭坊主でしたが、その子供にお美代という美貌の持ち主が居たのです。智泉院の檀家に将軍家斉のお小姓中野清茂が居ました。清茂はお美代を養女として大奥に入れて、家斉に智泉院を将軍家の祈祷所にと、夜の寝物語にねだらせて見たら。鼻の下を長くした家斉は「ああ、よかろう」の二つ返事で承知したのです。
これからが事件の始まりです。将軍家の祈祷所となると、奥女中が江戸城から智泉院の参詣に通うようになった。通ううちに坊主の中には特別に有り難い祈祷をする破戒僧もいて、加持祈祷の名の下にお女中と通じ、大奥にも出入りして、奥女中を夢中にさせたのでした。あまりにも酷い状態になってきたので放ってもおけず、天保五年(1840)五月寺社奉行に新任した阿部伊勢守正弘に摘発を命じたのです。就任直後の正弘が智泉院に踏み込んで、日啓と坊主たちを召し捕って調べると、事件の重大さが判明してきた。阿部正弘は谷中延命院の場合と同じように大奥に関する罪状には手をつけず、日啓とその身内だけを女犯のかどで処断した。日啓は遠島、倅の日尚は日本橋に三日間晒された。智泉院持ちの八幡神社を取り潰して領地を没収し、噂の的であった雑司が谷の感応寺も取り壊して、領地を没収した。大奥に傷はなかったが、正弘の裁決に怖気づいた大奥の浮気の虫を封じる効果はあった。
( 図:中山法華経寺・http://www.hokekyoji.com )
(感応寺事件)
谷中の天王寺【笠森お仙の寺(八つぁん6年1月・笠森お仙)。江戸三富(谷中天王寺、目黒不動、湯島天神)の一つ(八つぁん6年3月・富久)】は、もと日蓮宗・長耀山感応寺尊重院と言い不受不施派に属していたため、元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗し、天保4年(1833)護国山天王寺と改称した。そのため感応寺は場所を変えて、天保七年雑司が谷鼠山に感応寺の名で壮麗な新寺院を建てたのです。感応寺の住持の日詮は、役者に勝る美男子でその上美声で、流れるような説教に参詣者は夢うつつ。大奥女中だとて例外ではなく、感応寺詣では延命院や智泉院どころの騒ぎではなかったと言います。大奥から感応寺へ寄進する物と称して奥女中達が長持ちの中に入り(絵島・生島とは反対です)寺へ運び込ませ、ほしいままに密通していたのです。時の西丸老中・脇坂淡路守が摘発に乗り出したが、この時も瀬山一人を処分して納めてしまった。感応寺は建ててから五年で廃寺になったが、住職日詮はじめ寺僧全部にはなんの咎めも無かった。
【日蓮宗不受不施派・・日蓮宗には、体制寄りの受不施派と、反体制の不受不施派の対立があったそうで、不受不施派は幕府から邪宗だとして弾圧され、隠れキリシタンのような刑罰を受けたそうです】。
*谷中天王寺にあった「谷中五重塔」(八つぁん6年1月・谷中五重塔)が、海老名香葉子(林家三平の奥さん)等の運動によって再建が具体化しているそうです。
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