上野戦争
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慶応四年(1868)四月十一日、江戸城に官軍が入城してくる朝、上野大慈院(寛永寺)の一室で謹慎していた将軍・徳川慶喜は、黒木綿の羽織に小倉袴の旅姿で、わずかの供廻りをつれて千住大橋を渡り、松戸・藤代・土浦・片倉と泊りを重ねて、十五日に水戸に着いて弘道館に入った。
徳川家の政治方針は恭順路線だったので、旧幕臣の大半はその方針に従ったが、千人(三千とも言う)を超える勢力となった彰義隊は新政府軍との対決姿勢をますます強めた。暴発を恐れた勝海舟は隊士に市中巡察の任を与えた。 江戸に入った官軍も市中を闊歩していたので、この両者は江戸の各所で小競り合いを繰り返していた。 五月七日谷中三崎坂「官軍の酔っ払い三四人と、彰義隊十八番隊士関規矩守が谷中三崎町ですれ違った。官軍がいきなり関に向かって「馬鹿!」とやった。後は一言も交えず、呼吸を計って、互いにさっと抜いて斬りつけたが、関は腕が立つと解った官軍の者は、関が高下駄を後ろへ脱ぎ飛ばす隙を見て、さっと身を翻して逃げたが、その瞬間電光石火で、一人は後袈裟に一太刀やられて終った。丁度ここに通り合わせたのが十七番隊の壮士五六名それっと言うので、逃げ出す官軍を追いかける。一人は本郷動坂まで追われてここの地蔵塚の前でずたずたにされた。一人は駒込千駄木町観音前まで行って左右両腕を切り落とされて死んだ。三人とも薩摩の侍だと言う話であった」。上野戦争後三日目の十八日に遺体を高輪の薩摩邸から引き取りに来た。
危機感を強めた新政府軍側は、ついに武力討伐を決定したのです。明治元年五月十五日早朝、新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮して、上野寛永寺に籠る彰義隊への総攻撃を開始した。彰義隊の本陣は寒松院(上野動物園辺り)。官軍の前線指揮所は上野松坂屋辺りに置かれた。上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村益次郎は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残しておいたのです。戦況は一進一退だったが、新政府軍陣地の本郷台から上野山内に撃ち込まれた、佐賀藩のアームストロング砲二門の砲撃により、中堂や鐘楼など寛永寺の堂塔伽藍の数々が焼けおちてしまった。形成は一気に新政府軍に傾き勝敗は決したのです。
「ついに五月十五日早天より戦争起れり、さて上野山王台より打ち出す銃丸庭先へ飛び来たりし故、戸締をなし集合場所へ行き指揮を待居候。同日は晴天なれども前日迄に雨天続き、三枚橋辺は大下水開き、往来川の如し。彰義隊は必死戦争為すと雖も官軍に打敗られ、其場に自殺するもあり、落行もあり、忽ち静まりたり」(「幕末下級武士の記録」)。 *三橋・みつ橋(三枚橋はもっと下流の、昭和通り近くに在ったようです)。「不忍池から落ちた水はこの三橋の下をくぐり忍川となって流れていました。将軍が寛永寺墓参の際に通る御成道(現中央通り)の、現・上野広小路の場所に架っていた橋です。橋名の由来は、三つの橋が架けられていたことによります。三つの真ん中の橋が将軍御成の際に使用するもので、その東の橋は罪人、西の橋は葬礼の時に使用したと言います」。(絵図は三橋・黒門も画かれてます。「吟醸の館」より)。
上野山内には二百を超える彰義隊士の遺骸が散乱していましたが、新政府軍を恐れ誰も遺骸を埋葬しょうとはしなかった。五月十五日はいまの七月初旬にあたるので、眼もあてられない惨状だったと言います。箕輪の円通寺住職・仏磨和尚が弔いを願い出て、六月八日に火葬許可が下りました。 山王台(西郷銅像のある処)の塵溜の大きな穴を使って荼毘にふした場所が、西郷銅像の後ろにあります彰義隊士墓所です。円通寺(南千住1-59-11)には「黒門」が保存されています。
寛永寺の堂塔伽藍は大半が焼失しましたが、不忍池畔にあります清水観音堂は辛うじて残った一つです。観音堂外陣に入って右側天井近くに、上野戦争を描いた大きな「絵馬」が掛かっています。 また、日暮里御殿坂にあります「経王寺」山門には、境内に逃げ込んだ彰義隊に向けて撃った弾痕が今も残されています。(「幕末歴史散歩」「幕臣たちの明治維新」「江戸から東京へ」「吟醸の館」「地域雑誌・谷根千」「Wikipedia」より)。
(八つぁん5年12月黒門)(八つぁん6年1月夜嵐おきぬ)(八つぁん7年1月房総の戊辰戦争)(八つぁん8年1月明治改暦)(八つぁん8年6月根岸芋坂)(八つぁん8年12月台東区谷中)。
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