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2011年12月

2011年12月30日 (金)

大晦日

昔、大晦日は一晩中起きて過ごすことが習わしだった。一日の始まりが日没から始まっていたので、大晦日は新しい年の年神様を迎えるために、夜通し準備をしなければならなかったのです。もし、寝てしまうと白髪になると言い伝えられていました。これは神に仕える義務を怠ったために、年神様から新しい生命力を与えられず、生命を再生することが出来なくなり、生命力が衰えて白髪になると言うのです。ですから元旦は「寝正月」を決め込んでも、誰にも文句を言われなかったのです。大晦日には「年越し蕎麦」を食べるという風習があります。江戸中期ごろからの風習で、人生を「蕎麦のように細く長く生きる」という意味で食べるのです。関西では饂飩を食べて「太く長く生きる」ことを願う処があると言います。 江戸開府以来饂飩の町だった江戸で、蕎麦屋の始まりとされる「けんどん蕎麦切り」が吉原に現れたのは、寛文四年(1664)と言われています。 古くは蕎麦と言えば蕎麦粉を熱湯で練って食べる「蕎麦がき」が一般的でしたので、「蕎麦のように細く長く生きる」の諺は、現在のような細切り蕎麦が現れてからのものです。

「みそか蕎麦残ったかけハ伸びるなり」という川柳があります。大晦日、ヤッパリ訪ねてきた借金取りへの対応に四苦八苦しているうちに、年越しで食べていた蕎麦がすっかり伸びてしまったと言うのです。 暮れも押し詰まると掛売りの代金回収に「掛取り」が走り回りました。あの手この手を使って掛取りを追い返す「掛取万歳」と言う古典落語があります(大晦日、掛け買いの借金がたまった夫婦、当然支払える当てはないため、掛け取りの好きなもので言い訳して煙にまき、追い返してしまおうと作戦を練った)と言う噺です。 江戸時代は節払いといって盆と暮れとの二回、まとめて勘定の支払いを済ませる習慣がありました。 戦前でも一般的に「掛売り」は行われていました、貧しかった時代でしたが、お互いの信頼の上に貸し借りが日常的に行われていたのです。貧しい中でも、なんとか借金を返して、正月位は少なくても三が日は皆一斉に休みを取って、ゆったりと新年を祝う独特の雰囲気がありました。ところが今はどうでしょう、スーパーは元日から営業してますし、正月の行事を行う家も少なくなって、正月だと言うのに、ゆとりがなく、潤いもなく、何の情緒もない殺伐とした年の初めです。

従来、月末を「つごもり」と言った、「月隠り」(つきごもり)がつまって、つごもりになったそうです。そして十二月三十一日はその年の最後の月末と言うわけで「大」をつけて「大つごもり」となった。「小つもごり」は前日の三十日ですが今は使われていません。 晦日と言うのは、月末は月が晦(くらい)ので晦日(つごもり)となった。太陰太陽暦では月末を三十日(みそか)といいならわしていたので、晦日をみそかと読むようになって、晦日にも大を付けて「大晦日」となったのです。 大晦日には「年越し蕎麦」を食べる。「来年も幸せをそばからかき入れる」というものだが、金箔師が散らばった金箔を蕎麦団子にくっつけて集めたことから、蕎麦で金をかき集めると言う縁起となったと言う話もあります。年越し蕎麦には薬味に「葱」を入れます、これは心をやわらげる「労ぐ」(ねぐ)に通じ、それが祓い浄める神職の「禰宜」(ねぎ)ともなったと言うのですがどうも語呂合わせのようで、とにかく今年の穢れを払いぬぐって新年を迎えようと言う事です。

大晦日には除夜の鐘が鳴らされます、除夜とは古い年が押しのけられる夜のことで、大晦日の晩です。中国では宋の時代に始まった。日本では鎌倉時代に禅寺で朝夕行われていたが、室町時代からは大晦日にのみ撞くようになった。鐘は煩悩を解脱し、罪業の消滅を祈って百八つ撞きます「人間は六根という感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの迷いの基となる要素を持っていて、それぞれ六境という六つの対象、色・声・香・味・触・法を理解する。そのとき三不同、好・平・悪の受け取り方があり、その程度は染・浄の二つに分かれる。そのすべてが過去・現在・未来の三世に渡って人を悩ますので、6×3×2×3=108、合わせて百八の煩悩と言う訳です。
(「年中行事を科学する」「旧暦て読み解く日本の習わし」より)。「八っあん」(6年9月蕎麦切り寺。7年11月けんどん屋。8年7月江戸の蕎麦屋。10年1月初夢。10年10月蕎麦屋の酒)。

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2011年12月25日 (日)

鮑のし

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好人物だがボンヤリ者の八つぁんとしっかり者の女房。「いまけえったよ、飯が食いたい」。あいにく米もないし金もないからさ、ちょっと熊さんのところで五十銭借りておいでよ。熊はおれには貸してくれないよ。そりゃおまえさんには貸さないさ、あたしの頼みと言えば貸してくれるよ。何だか面白くねぇ話だな、おめえ、あいつと怪しいな。何馬鹿言ってんだよ。 お前さんは返さないから信用がないんだよ。 五十銭借りて鮑を買い、結婚祝いとして持って行く。 お返しに一円をもらって半分を借金の返済に当て、残りを食費にしようという女房の作戦だったが、向こうへ持っていくと、婚礼の祝いに「磯の鮑の片思い」は縁起 が悪いと断られた。 途方に暮れて、しぶしぶ帰る途中で鳶頭に会って知恵を付けられた。鮑ってものは、紀州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が一晩かかって作らなきゃできねえんだ。 それを何だって受け取らねえんだ。ちきしょーめ、一円じゃ安い。五円よこせって尻をまくって言ってやれ」とけしかけられ、さっそく戻って啖呵を切ると、先方の主人も言わんとするところは理解した。なるほど、では八つぁんに聞くが、熨斗の「の」の字を「乃」と書くのがあるな、棒を一本入れるから、杖突き熨斗とも言うが、あれはどういうことだね?「あれは、鮑の爺さんでしょう」。(落:鮑のし)

金品を贈るときには「熨斗(のし)」を添えます。熨斗は熨斗鮑の略で、干した鮑の肉を薄く延ばしたものです。 伊勢神宮での神事に使用される国崎産の熨斗鮑にちなみ、御師が縁起物として配りだしたのが一般に広まったきっかけだそうです。物を贈るときは、必ず「なまぐさ」あるいは酒を添えました。 仏事には当然「なまぐさ」を使わず、熨斗も凶事には使いません。 仏事以外の贈答品には、精進でないことを示すために、なまぐさ物の代表として鮑熨斗を添えたのです。 魚や肉等を贈るときは、その物が「なまぐさ」なので、熨斗は添えません。 鮑は長寿をもたらす食べ物とされたため、縁起物として用いられてきました。 中世の武家社会においては武運長久に通じるとされ、陣中見舞などに用いられたのです。 
鮑は縁起物として贈答品に添えられてきましたが、次第に簡略化して熨斗鮑を図案化した物を印刷した熨斗紙で済ませることが多くなりました。(写真の六角形に包まれた、中にある黄色いのが熨斗です)(「Wikipedia」「江戸三百年普通の武士はこう生きた」より)。
(鮑熨斗)熨斗刀と呼ばれる半月状の包丁で、鮑の身を外側から渦巻き状にかつらむきにして、かんぴょうのような3~4mほどのひも状にしていきます。干して琥珀色の生乾きになったところで、竹筒で押して伸ばします。更に水洗いと乾燥、押し伸ばしを交互に何度も繰り返すことによって鮑熨斗が出来上がります。


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2011年12月20日 (火)

円太郎馬車

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落語家の四代目橘家円太郎てえ人は、大変に売れた音曲師で、豆腐屋さんが表をププゥ、ププゥと吹いて歩くラッパを、高座に持ち込んで、音曲の合の手に「お婆さん、危ないよ、プップッ」なんてことをやった。この人のラッパてえのは、都電の前が市電で、その前が鉄道馬車で、その前がガタ馬車だった頃に、御者が警笛がわりにラッパを使ってたのを真似て、そいつを高座の上がり降りに使ったのが始めだそうだ。ひと頃は大変な人気で、ガタ馬車を「円太郎馬車」とよんで、関東大震災の頃までこの名前が親しまれていた。そのころ西洋楽器として、長崎以外ではお目にかかれなかった喇叭を取り出して吹きたてたのです。ブリキで出来たその喇叭は、菅の先が朝顔のように開いただけの原始的な物だが、江戸っ子はすっかり異国情緒に魅せられてしまったのです 円太郎てえ人は、何でも五月人形の金時みたいな顔して、根っから陽気な人だったそうです。その時分、色ものの四天王と言われたのが、「ラッパの圓太郎」の四代目橘家円太郎、「へらへらの萬橘」の初代三遊亭萬橘、「ステテコの圓遊」の初代三遊亭圓遊、「釜堀りの談志」四代目立川談志の4人です。噺家が高座のあと余興でやる芸を、あたしたちの方は「飛び道具」てえんですが、こういう人達は、その飛び道具のほうですっかり売れて、そっちの方で名前が残っちまったんです。 圓太郎の芸から乗合馬車のことを「圓太郎」「圓太郎馬車」などと呼んだ。また、関東大震災直後の帝都交通の復旧手段として急遽登場した市営バスは急造であったため、ガタ馬車同然の車体であった。このため、この市営バスにもこの言葉が引き継がれ「圓太郎バス」とも言われた。

大正十二年九月一日、東京は関東大震災に見舞われ、交通網が寸断された。特に、市電網は壊滅的な被害を受け、復旧の見通しが立たなかった。東京市電気局は、市電が復旧するまでの足としてバスの導入を決定し、大量生産を行っていたフォード社のT型フォードのエンジン付きシャシーを購入、バスのボディを別途国内で製造し、組み合わせる手法を採ることとした。こうして生まれたバスが円太郎バスです。わずか11人乗りの急造バスだが、小さい車体は震災で寸断された市中を走り回るには好都合であったこともあり、市民の貴重な交通機関となった。名前の由来はT型フォードのシャシーを流用したバスは腰高であり、シルエットが明治時代の乗合馬車に似通っていた。乗り心地は馬車並みに酷かったので、明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車と呼ばれていたので、それをもじって円太郎バスと呼ばれるようになったのです。(「びんぼう自慢」「Wikipedia」「江戸から東京へ」より)(写真は、ガタ馬車)。

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2011年12月14日 (水)

大奥の倹約

倹約々々とやかましく言うことは大嫌いだ。幕府の末でも、あまり倹約々々と言うものだから、大奥は実に乱暴ばかりして係の役人に当たった。細工物をなさるといふので、役人に切れの注文があったら、役人が寄せ切れか何かを買って上げたそうな。するとみんなが怒って「こんな粗末なものを持ってくるとは人を馬鹿にしている。こんなものが何になるのか」と言って大騒ぎになった。役人は真青な顔をしておれのところへ相談に来たから、おれは酷く叱って、直ぐ呉服屋に紅白の縮緬を十匹ほど持って来させて、おれが自分でこれを抱えて大奥へ行って「あなた方には実にお気の毒です。小役人といふものは仕方がありません。あれは今日限り免職に致しますから、どうぞご勘弁なさってこれをお用い下さい。お倉にはまだ何反でもありますから、御入用の時はいつでもさう仰せて下さい。あなた方のお世話は、今日から私が致しいます」といった。ところがみんな顔を見合わせ「そんな結構なものはもったいない。またこんなに沢山は入りませぬ。役人を免職にするのもどうか止して下さい」と、今度は向こうから頼んできた。それからといふものは、乱暴もふっとんで、大層倹約になったよ。 それでおれは度々大奥へ行って「あなた方は何故そんなケチな事をなさいますか、私は御馳走が戴きたう御座います」といふ風におれの方から催促するのだ。天璋院さまもこの頃は一つ飯台で大勢の女中と一緒にお上がんなさって居たが、後には俺なども同じお部屋でご馳走になることもあった。すると酒でも三升徳利か何かに入れて、ああいふ風なところへ置いて、少しづつ出してお飲みになるから「それは何と言うケチ臭いことです、三つ割でもお取り寄せなさるがよろしい」といって、おれが自分で立って行って誂えるのサ。さうすると、お付きのものは、勝さま気が大きいといって驚くし、天璋院さまでも、やはり三升徳利の方が美味いと仰せられたさうだ。それからは、お菓子などでも箱を一々開けて紙に包んで天井へ吊るしておくといふやうな風に、万事倹約主義になって、大奥がむつかしいなどといふことは決してなくなったよ。 西郷隆盛が「勝さんは、大奥をうまくおやんなすったが、私は弱りましたよ」と言うたよ。薩摩の改革の時に、老女にオイオイ泣き付かれて弱ったそうだよ。(「氷川清話・勝海舟」より)。(天璋院は、十三代将軍家定の正室篤姫)。


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2011年12月 7日 (水)

武士の家計

江戸時代の武士の給録制度は、職務内容とは関係のないところで禄高が決まっていました。武士の家録は、家柄が良いとか昔先祖が勲功をたてたと言うことで支給されていたのです。現職が忙しい仕事でも、経費がかかる職務であってもお構いなしで、特別の役につかない限り二百石はいつまでも二百石で、すべては過去が給与を決めていたのです。 
江戸時代の武士が皆借金を抱えていた事はよく知られている事ですが、大名や旗本は富裕な町人に借金をして権威を失墜させていきました。ところが、一般の武士の場合は、町人からの借金は五割位ですが、家中の武士からの借入が四割にもなっていたのです。これは、債権者の町人が武士の年貢米を差し押さえるのは容易ではなかったのと、借金を踏み倒されても、藩が「強制執行」をしてくれる訳ではないからです。その為に、同僚や親戚など互いに事情を知っている間柄で金の貸し借りをしていたのです。 武士の親族関係は、一方では金融関係でもあったので、家柄・格式に見合った縁組が志向されたのは身分意識だけではなかったのです。

財政が破綻していた加賀藩の「御算用者(会計)」猪山家でも、将軍家の溶姫との縁組を成功させるために多額の借金を抱えていました。その負債総額は年収の二倍にもなっていたと言います。 天保十三年(1842)猪山家では借金返済の一大決意をして、所持品を売り払って借金を返すことになりました。 金沢は加賀蒔絵の町であり、猪山家は「姫君様付き」の職業柄から、多数の蒔絵の器や道具がありましたので、これも金に換えられました。 武家の女性の財産は衣類ですが、嫁入りの衣装も徹底して売り払っています。「地黒小袖」「紅縮緬小袖」等は高く売れました、美しい加賀友禅も手放す決心をしているのです。 江戸中期以降武士が貧しくなったのですが、江戸時代前期は、武士が国内総生産の五割位を取り上げていたのですが、後期になって農業以外の生産が伸びてくると、年貢は二割五分位に低下したと思われるのです。ところが、武士の身分と格式を保つための費用は減らせなかったのです。この費用を負担しないと、武家社会からは確実にはじき出されて、生きてはいけなかったからです。 

御家人の多くは江戸時代中期以降は非常に窮乏していました。地方の諸藩の藩士たちは農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたのです。ところが、幕府の御家人は江戸に定住していた為、常に都会の物価高に悩まされていたので、公然と内職を行って家計を支える武士が一般的になっていました。 山の手に屋敷を持っていた武士は、広い土地を与えられていましたので、その土を売って生活費を稼いだ御家人がいました。土は下町で大きな需要がありましたので、自宅の土地の土を売りつくして終うと、こっそり他の土地に穴を掘って土を売る者もいました。ある日突然、落盤にあって死亡したと言う話もあります、文化十二年(1815)の事です。

明治維新は武士の特権を剥奪しました。これに抵抗した者もいましたが、果てしない内乱が続いた訳でもなく、大流血や報復を繰り返す不安定性があったわけでもなく、殆どの武士が改革に従ったのです。これは、一つには武士が旧来の身分的義務からの解放を望んだからだとも言われています。(「武士の家計簿」「江戸から東京へ」より)。 
「八つぁん」(6年10月士族の商法)(6年11月武士と町人)(8年11月御家人の内職)(10年8月武士の収入)(10年6月士族の終焉)(10年9月東大赤門)。

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2011年12月 1日 (木)

会津とお江

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第二代将軍徳川秀忠の正室は徳子・お江与、のちに崇源院夫人と言われた「お江」です。浅井長政の娘で、母は織田信長の妹「お市の方」です。姉茶々(淀君)もお江も、伯父織田信長の激しい気性に似たのか勝気な人だったようです。お江は嫉妬心が強く側室をおこうものなら短刀で刺されかねない勢いだったと言われます。秀忠が奥女中などに懐妊させると降ろさせたと言われています。この時代、側室を持つことは当たり前の事であり、家康には数えきれない程の側室が居たのですが、一夫一婦を守った秀忠は真面目な将軍だったのでしょう。その秀忠も一度だけ、乳母付きの女中として大奥に入った「志津」に熱を上げました。常日頃お江の尻に敷かれていた秀忠は、初めて女性の従順さを知ったのです。やがて志津は身ごもったので引き離されて、江戸城外神田白銀町の姉の嫁ぎ先で男の子を生みました。その子が長じて、会津藩の初代藩主保科正之となるのです。正之は徳川家康の孫ですが、秀忠はお江にも家康にも正之の存在を知らせなかったのです。 後に幼い第四代将軍家綱を補佐した大老保科正之は、危うくお江の眼を逃れて無事出生した例外的な人なのです。将軍の子としての扱いを受けず、信州高遠三万石の保科正光の子として育てられた正之は、寛永三年(1626)、お江が死去して初めて将軍に謁見を許されたのです。 

お江は、長男竹千代(家光)よりも次男国松(忠長)の方を可愛がりました。竹千代が病弱で吃音で、気のきかぬおっとりした少年だったのに対して、国松は、容姿端麗で才気ある利口者だったので、お江は気に入っていたようです。秀忠もお江の影響を受けて国松の方に目をかけていました。 慶長九年(1604)秀忠の嫡男竹千代(家光)の乳母と成った福(春日局)は、秀忠が長男竹千代を差し置いて、次男国松に将軍の職を継がせる気ではないかと疑り、家康への直訴に及びました。 家康が「久々に孫に会いたい」と江戸に出てきました。秀忠夫妻は竹千代・国松を連れ立って来ましたが、家康は竹千代の手を引いて上段に座らせました。国松も続いて上がろうとしたが「いやいや、もったいない。国はそれに居なさい」と言って下段に着かせたのです。これを観ていた秀忠夫妻は悟るところがあったのです。
秀忠の死後、天下を継いだのは保科正之の異母兄である家光です、家光は正之を弟として遇しました。 ある時家光は目黒の成就院で休息していました。家光が誰の檀那寺かと住職に尋ねると、保科正之の生母浄光院志津の方だという。家光とは知らぬ住職は「正之という方は、今の将軍家の弟と聞いているのに、随分貧しくしておられます。高貴の方々というものは、兄弟でも親密の情の薄いものです」と語った。これを聞いた家光は、正之を、高遠三万石から山形最上十万石の大名に抜擢し、さらに会津若松二十三万石の城主に封じたのです。 会津若松は、尾張、紀州、水戸の御三家に次ぐ格付けで、江戸で不穏の事態があれば、直ちに江戸に駆けつける使命を負わされていました。徳川将軍に忠勤を励むのが会津藩是で、二心を抱けば会津藩主ではないとの指針があったのです。 

国松は元和六年(1620)竹千代とともに元服し名を忠長と改めました。元和九年(1623)家光の将軍宣下に際し中納言に任官されました。寛永元年(1624)には駿河国と遠江国の一部を加増され、計五十五万石を領有して家光に迫る権力を有しました。 寛永三年(1626)には大納言となりましたが、寛永八年(1631)には不行跡を理由として甲府への蟄居を命じられました。 寛永九年(1632)、父秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。 秀忠死去後は、領国全てを没収されて、甲府から高崎(上野国)に移されて閉じ込められました。 寛永十年(1633)、幕命により高崎において自害させられたのです。享年二十八歳だった。墓所は群馬県高崎市通町の願行山常巌院大信寺にあります。

諸大名などにおいても、母が懐妊のまま他所へ嫁に下されたりして、そのまま家臣や庶民の子として一生を終った者が決して稀ではなかったと言います。 水戸の徳川斉昭は尊王攘夷の巨頭として知られていますが、私生活は好色で正室や側室との間に二十二男、十二女をもうけたと言いますから、名前も知らない、顔も知らない子も居たことでしょう。 その上をいったのが、第十一代将軍徳川家斉です。特定されるだけで16人の妻妾を持ち、正室と40人以上の側室との間に、男子26人・女子27人を儲けました。最後の子供が生まれたのは文政五年(1827)で家斉五十五歳の時です。 

戦後、鈴木尚氏が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘されその遺骨も調査されました。その調査報告は『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』にまとめられていますが、それによると崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、お江は小柄で華奢な女性であったようです。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけです。
(「会津藩VS長州藩」「江戸から東京へ」「日本の歴史」「Wikipedia」より)。(写真:崇源院・お江)。「八つぁん」(8年12月文京区春日。9年10月徳川・会津移封、会津戦争。10年11月徳川家斉)。

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