円太郎馬車

落語家の四代目橘家円太郎てえ人は、大変に売れた音曲師で、豆腐屋さんが表をププゥ、ププゥと吹いて歩くラッパを、高座に持ち込んで、音曲の合の手に「お婆さん、危ないよ、プップッ」なんてことをやった。この人のラッパてえのは、都電の前が市電で、その前が鉄道馬車で、その前がガタ馬車だった頃に、御者が警笛がわりにラッパを使ってたのを真似て、そいつを高座の上がり降りに使ったのが始めだそうだ。ひと頃は大変な人気で、ガタ馬車を「円太郎馬車」とよんで、関東大震災の頃までこの名前が親しまれていた。そのころ西洋楽器として、長崎以外ではお目にかかれなかった喇叭を取り出して吹きたてたのです。ブリキで出来たその喇叭は、菅の先が朝顔のように開いただけの原始的な物だが、江戸っ子はすっかり異国情緒に魅せられてしまったのです 円太郎てえ人は、何でも五月人形の金時みたいな顔して、根っから陽気な人だったそうです。その時分、色ものの四天王と言われたのが、「ラッパの圓太郎」の四代目橘家円太郎、「へらへらの萬橘」の初代三遊亭萬橘、「ステテコの圓遊」の初代三遊亭圓遊、「釜堀りの談志」四代目立川談志の4人です。噺家が高座のあと余興でやる芸を、あたしたちの方は「飛び道具」てえんですが、こういう人達は、その飛び道具のほうですっかり売れて、そっちの方で名前が残っちまったんです。 圓太郎の芸から乗合馬車のことを「圓太郎」「圓太郎馬車」などと呼んだ。また、関東大震災直後の帝都交通の復旧手段として急遽登場した市営バスは急造であったため、ガタ馬車同然の車体であった。このため、この市営バスにもこの言葉が引き継がれ「圓太郎バス」とも言われた。
大正十二年九月一日、東京は関東大震災に見舞われ、交通網が寸断された。特に、市電網は壊滅的な被害を受け、復旧の見通しが立たなかった。東京市電気局は、市電が復旧するまでの足としてバスの導入を決定し、大量生産を行っていたフォード社のT型フォードのエンジン付きシャシーを購入、バスのボディを別途国内で製造し、組み合わせる手法を採ることとした。こうして生まれたバスが円太郎バスです。わずか11人乗りの急造バスだが、小さい車体は震災で寸断された市中を走り回るには好都合であったこともあり、市民の貴重な交通機関となった。名前の由来はT型フォードのシャシーを流用したバスは腰高であり、シルエットが明治時代の乗合馬車に似通っていた。乗り心地は馬車並みに酷かったので、明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車と呼ばれていたので、それをもじって円太郎バスと呼ばれるようになったのです。(「びんぼう自慢」「Wikipedia」「江戸から東京へ」より)(写真は、ガタ馬車)。
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