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2012年1月

2012年1月28日 (土)

地震と鯰

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日本は地殻変動によって造られた島国です。プレートがぶつかり合って圧縮され、トラフ(三陸沖から房総沖に達する日本海溝、相模トラフ、南海トラフ)、と言われる凹地で陸側プレートの下に潜り込みを続け、細長く盛り上がったのが日本列島です。地震がなければ、日本の島々は存在しないのです。活断層が起伏に富んだ地形を造り、地殻運動で沈降し続ける広い空間に砂や粘土が堆積して東京・名古屋・大阪などの大都会が発達しました。その宿命として、地震・津波による酷い仕打ちを受けてきた長い歴史があります。 日本に生まれた以上地震との共存は避けられません。大規模地震はある程度決まった地点で繰り返し発生しているそうですから、過去にどんな地震があったのかを知っておく事が大切なのだと言われます。

話は江戸に飛びますが、突然襲ってくる地震は「地下に住んでいる巨大な鯰が動くと地面が揺れる」という俗説が、全国的に知られていました。この鯰を鹿島神宮の神様が要石で押さえつけている間は静かだが、神様が留守にしたり気を緩めると鯰が暴れ出すのだと言い伝えられていたのです。地震の前兆として鯰や他の動物の異常行動が、経験的に話題となっていたのでしょう。 要石は、古代の神事で神の座である岩座と伝えられる霊石で、今も茨城県の鹿島神宮境内に鎮座しています。野球ベース程の小さな石ですが、氷山の頭部のように実体は地中深く埋もれた巨石だと言われています。かって水戸光圀がこの石の底を調べようとして掘りかけたけれど、いくら掘っても翌朝には元に戻ってしまうので、神罰を恐れて止めたと言う伝説が伝わっています。要石の下には、鯰がいると言われています。 
安政二年(1855)、江戸直下型地震の「安政大地震」のとき発行された瓦版は、被害報道とともに「なまず絵」と呼ばれる刷り物が多数発行されました。 かわら版の一文「鹿島の神により地の底に永年押さえつけられている鯰は、かねてから身体を揺すりたく思っていた。八百万の神が出雲に集まる神無月に、鹿島の神も出張不在となったので、鯰は平安の世を憚らず、非道にも揺すり出し、地震災害を発生させてしまった。留守居役の恵比寿様が一足飛びに報告するや、鹿島神は真っ先に帰ってきて要石で鯰を押さえつけ、天下太平の世に戻った。悪い鯰は骨抜きにして蒲焼屋へ払い下げてしまおう」。 *「鯰絵」は江戸時代の日本で出版された、鯰を題材に描かれた錦絵の総称です。大鯰が地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰に基づいており、安政二年に起きた安政の大地震の後、江戸を中心に大量に出版されました。

天正十三年(1586)、中部地域から近畿東部にかけて広い範囲が凄まじい地震に見舞われました「天正地震」です。この地震が発生した時、豊臣秀吉は、かって明智光秀の城だった、近江の湖のほとりの坂本の城にいました。秀吉は、その時手がけていた一切の事を放棄し、馬を乗り継いで、飛ぶようにして大阪へ避難したのです。大阪は秀吉にとっては最も安全な場所と思えたからです。琵琶湖南西岸で強い揺れに襲われた秀吉は、肝を潰して逃げ帰ったのです。
琵琶湖には現在も鯰が多く生息していますが、天正地震で琵琶湖の鯰が「奇妙な行動」を起こし、これが秀吉の耳にも伝わった可能性が高いのです。 文禄元年(1593)、秀吉から、伏見城の普請を担当した京都所司代に送った消息の手紙に「伏見のふしん鯰大事にて候まま(中略)、利休にこのませ候て、ねんころに申付けたく候」と書かれています。鯰とは地震のことで、「鯰大事」とは「地震対策が大事」という意味です。秀吉が切腹させた千利休の好みにすることも指示しています。
1594年の夏、秀吉は完成した伏見城に移った。秀吉は朝鮮からの使節を伏見城で迎えることにしたのですが、当日「なまず大事」の懸念が現実のものとなったのです。 文禄五年(1596)、突如として大地が揺れ動いた。「伏見の殿中殿舎倒れ崩れる、是によりて上臈女房七十三人、中居下女五百余人横死す」と「家忠日記」に書かれています。 御城は天主閣が崩れ落ち、大きな被害が生じたのです。その後伏見城は、少し東の木幡山に再建されることになって十か月後に天主が完成しました。1598年の夏、秀吉は伏見城で六十二年の生涯を閉じたのです。

九世紀の地震活動は、現在の日本列島と共通点が多いのだそうです。
(平安時代794~1185)。桓武天皇は794年に平安京遷都。818年関東北部に大地震が発生。830年と850年に東北地方の日本海側で大地震発生。841年長野県と伊豆半島で大地震発生。863年富山・新潟で大地震発生。864年から二年間富士山噴火し青木が原形成。868年兵庫県で「播磨地震」発生。869年東北太平洋海底で「貞観地震」発生。871年秋田・山形両県にまたがる鳥海山噴火。878年相模湾付近で大地震発生。880年出雲地域で大地震発生。887年南海トラフから「仁和南海地震」発生。
(「地震の日本史」「江戸のマスコミ・かわら版」「Wikipedia」より)。(絵図は、鹿島大明神と鯰)。

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2012年1月21日 (土)

満州慰問

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五代目古今亭志ん生は、「師匠、どうでしょう、一月ばかりの予定で、満州まで行ってくれませんか、銭は三千円出しますし、それに向こうにゃァ、まだ酒がウンとあるそうですから・・・」との興行師の話を聞いた。満州には酒があると言うので、終戦真近の昭和二十年五月に三遊亭円生と満州へ慰問に出かけました。
そのうち、ソ連の兵隊が攻めてくるってえ話になった。さァ、グズグズしちァあいられません。どうしょうかと思っているところへ、大連から円生とあたしに「二人会」をやってくれってえ話がきたから、これ幸いとばかり、逃げるように大連へ行きましたが、非難する人で一杯でしたよ。なんでも、一番最後の汽車だったようでした。 大連はてえと、そりゃァ町中蜂の巣を突っついたような騒ぎで、日本もとうとう駄目だ、男てえ男は全部斬り死にで、女てえ女は全部青酸カリで自殺するんだてんで、もう手がつけられません。顔色なんぞありゃァしない。 いや、実にどうも、色々な噂が乱れ飛びましたね、良い話なんぞ一つもない。でもあたしゃァ、その時、こりゃァきっとデマに違えねえと思いましたね「べらぼうめ、日本がそうたやすくお手上げになるもんか、負けてたまるけぇ」と、タカをくくってましたよ。 だってそりゃァそうでしょう。あたしらのガキの時分、日清、日露の戦争があって、あんな大きな国を相手にしたって勝ったんです。「日本ぐれえ強い国は、世界に二つたァねえだろう。ありがてえな、どうも」と思っていた。その前だって後だって、日本は只の一度だって負けたことなんぞありゃァしない。今は、そりゃァ苦しいかもしれないが、そのうちにきっと勝つだろう・・・と信じて、降参するなんてぇことは夢にも思わなかった。ところがどっこい、本当に負けたと分かったときの悔しさ、なさけなさなんてえものは、とってもとても言葉の外です。内地にいればいくらか自由もきくだろうが、負けた上に敵さんの土地だてえんですから、生かすも殺すも向こうさんの気持ち次第、泣こうにも涙も出ねえてえ心境でしたよ。 ソ連兵の顔ォ見る前は、支那人だの朝鮮人だのってえ、今まで日本人の味方だったのが、ガラッと手のひら返したように威張り始めたのは、よけい悔しい思いでした。でも、どうする事もできやしません。ただもう、歯ァ食いしばって我慢するよりほかありません。
そんな空気の中で、あたしたち「二人会」をやったんですよ。ソ連が進駐して来るてえその前の晩のことなんです。こんなお国の一大事のときに落語の会どころじゃなかろうと思ったが、主催者は、前もって日ィ決めてあることだし、会場も用意してあるんだから、今更止めるわけにはいかねぇと言うから、そいじゃァ行くだけ行ってみようよ、てえんで、円生と二人でそこの映画館へ出かけてみるてえと、八十人ばかりの客がちゃんと銭払って来ているんですよ。「明日ァソ連の兵隊が来て、みんな死んじまおうと言うのに、よくまァ、あんたたち、落語なんぞ聞きに来る気持ちになれますねぇ」って、あたしが聞くてえと「いやァ、どうせ死んじまうんだもの、せめて思いきって笑って死にたいと思いましてねェ・・・」と、みんな案外落ち着いたものです。あたしたちも、落語なんぞやれる心境じゃなかったが、ぜひ聞きたいと頼まれると、もう手前勝手の了見で断るわけには参りません、円生だって同じですよ。「じやァ、お箱を二席ずつやろうよ」てえことになって、あたしゃァ「居残り佐平次」と「錦の袈裟」をやりました。「居残り佐平次」は、品川遊廓へ遊びに行って、さんざん騒いだあげくに銭払わないで居残りになる。「錦の袈裟」は、町内の若い衆が吉原遊廓にくり込んで、何か変わった遊びをしょうてんで、みんな錦の褌を揃えた、与太郎はお寺で錦の袈裟を借りてきたのです。(「びんぼう自慢・古今亭志ん生」より)。

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2012年1月18日 (水)

一葉と汁粉

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明治25年2月4日、一葉は寒空のもと、みぞれまじりの雨が降るのも厭わず、半井桃水を訪ねます。 早朝から空模様悪く、雪になりそうだと皆言う。よし雪になるのならなれ、何を苦にすることがあろうと家を出る。真砂町のあたりまで来ると、雪が小止みなく降ってくるので壱岐殿坂から車を雇って行く。前につける幌はわずらわしいので掛けさせなかったら、風と共に吹き込む雪がとても辛抱できずに傘で前を覆いながら行く。大変苦しい。九段坂を登る頃から激しくなり、堀端通りなどは道も白く見える程になった。平河町のお宅へ着いたのは十二時を少し過ぎた頃でしょうか。門でお呼びしても答える人もいない。お留守かもしれないと思って、上がり口の横板に腰をおろして待つことにする。風まで加わって格子戸の隙間から吹き込む寒さは、寒いどころの話ではない。我慢できないので、そっと障子を細めに開けて玄関の二畳ほどの畳の間にあがりこんだ。襖一つ向こう側が先生のお部屋なので、開けさえすればいらっしゃるかどうか分かるのですが、私の性質ではとても入ることは出来ません。時計が一時を打った。 心細くさえなったので、わざと咳払いなど何度もすると、お目覚めになったのか、パッと跳ね起きる音がして、やがて襖が開けられた。先生は寝間着姿を恥じられたのか、「これは失礼」と言って、慌てて広袖で長襟をかけた羽織を上から着られたのでした。「どうして起して下さらなかったのですか、それではあまり遠慮が過ぎますよ」と、大笑いしながら雨戸を開けなさる。「あゝ 雪まで降っていますね、さぞお困りだったでしょう」と言って勝手口の方へ行かれた。先生は台十能というものに消し炭を少し入れてその上に木屑の細かに切ったのを載せて持ってこられました。火鉢に火を起こしたり、湯沸かしに水を入れてくるなど、見る目も惨めで、「私にも何か手伝わせて下さい。このお布団をかたずけましょう」と言ってたたもうとすると、先生は慌てて押し止めなさって「いやいや、お願いすることは何もありません。それはそのままにしておいて下さい」といかにも迷惑そうなご様子なので止めました。「雪が降らなかったらもっとご馳走するはずでしたが、この雪では絵にかいた餅になってしまいましたね」と言って、ご自分で汁粉を炊いて出される。「さあ、召しあがりなさい。お盆はあるのですが、奥の方にしまい込んでしまって、わざわざ出すのも面倒なのです。それに、箸もこんなもので失礼ですが」と言って、汁粉の餅を焼いた箸を添えて下さるのでした。 やがてお暇をしょうとすると「雪がますます盛んに降り出しました、今夜は、お宅へ電報を打って、是非ここへお泊りなさい」としきりに仰る。「とてもそんな事出来ません、許しを受けないで人の家に泊まるなどと言う事は、母から厳しく止められておりますので」と、緊張して真面目な顔つきで答えると、先生は大笑いなさって、「私は小田の家へ行って泊まるのですよ。あなた一人がここに泊まるのですから、何の不都合もないのですよ」と仰るが、私がどうしても承知しないので、それではと車を呼んでくだ下さった。 桃水先生のお宅を出たのは四時頃だったでしょうか。一面真っ白な雪の中を、凛々とした厳しい寒さを冒して帰って行く、この情趣はなかなか素晴らしいものでした。堀端通りから九段あたりは、吹きつける雪に顔をあげることも出来ず、頭巾を被った上に肩掛けをすっぽりと被り、時々眼だけを出してあたりを見るのも面白い。雪の中を車で帰る途中は、こうして色々な感情が次々に胸に迫ってきた。家に帰り着いたのは五時、母上や妹との話は多すぎるので、書かないでおく。(「樋口一葉日記」より)。

*半井桃水(1860~1926)小説家で樋口一葉の思慕の人でした。
*一葉が住んでいた本郷菊坂町の鐙坂を登ると春日通り・真砂町です、本郷二丁目を通り抜け、壱岐殿坂から車(人力車)を雇って後楽園前に出て「白山通り」を行って、水道橋を渡ったのだと思います。
*半井桃水の住んでいた平河町は国立劇場のある処ですから、堀端通りは「内堀通り」です。帰路は内堀通りから九段坂上に出て、靖国通りを左折して、白山通りを行ったんだと想像します。(当然のことですが、明治十六年測量の地図を見ますと、今の地図で道順を特定するのは難しいです。 靖国神社の大鳥居から社殿までの参道部分は、当時競馬場だったのです)。
*台十能:炭火を入れて運ぶ道具で、台が付いているので座敷用です。

父、樋口則義が明治二十年に脚気で病没したので、一葉は十八歳で女戸主として樋口家の負債を相続する事になった。さらに、母たきと、妹邦子を養って生計を立てなければならなくなったのです。日々苦しい生活を送っていた一葉にとって、この日は心ときめく出来事だった。雪の降る寒い日に、思慕の人半井桃水が作ってくれた汁粉は、一葉にとって心も体も温まるご馳走だったことでしょう。(写真:左から、妹くに、母たき、一葉)。
「八っあん」(5年5月東京の人一葉。6年11月樋口なつ。6年12月御茶ノ水橋。7年1月一葉と菊。9年4月一葉のこと。9年5月半井桃水。9年6月私は女。9年7月あの世この世。10年12月樋口奈津)。

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2012年1月14日 (土)

弥次郎・北八

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十返舎一九の「膝栗毛」は享和二年(1802)に初篇が出版されました。それが予想以上に好評で、一九は東海道を何回も往復して続編を重ね、結局、弥次郎・北八が東海道から中山道を廻って江戸に帰ってきたのは文政5年(1822)のことで、一九は20年にわたって書き続け全8編18冊の大作となったのです。ただ、一九の作品は他人の作品の焼き直しが多いと言われていて、五右衛門風呂の話も「小噺」から取ったものだそうです。下記は「道中膝栗毛発端」からです。

栃面屋弥次郎兵衛は駿河国府中の「親の代より相応の商人」で、百二百の小判には困らない程の身代だったが、遊興に身を持ち崩し、果ては旅役者が抱える鼻之助という陰間に入れ込んで身代に穴をあけ、二人して府中を駆け落ちして江戸へ出た。「借金は富士の山ほどあるゆへにそこで夜逃げを駿河ものかな」。神田の八丁堀に住んで、少しは貯えがあったので、江戸前の魚の美味に、豊島屋の剣菱。明樽は片手を取って手水桶にして、いくつとなく長屋に配った。 終には有り金が無くなってしまった。これでは済まぬと鼻之助を元服させ、喜多八と名乗らせ、相応の商家に奉公にやった。元来小才の利く者だったので、主人の気に入り、忽ち小銭の融通がきく身分になった。 弥次郎は八丁堀の長屋で硯箱や重箱に絵を描いてのその日暮らし、米の当座買い、たたき納豆、浅利のむき身、居ながらにして呼びこんでは喰ってしまう、銭はびた一文も残らぬ身代、府中より着続けた着物の袖は綿が出て洗濯もできない、これはあまりの暮らしと、近所の飲み仲間が相談して、さるお屋敷に奉公をしていた年増女を嫁にあてがった。破れ鍋に綴蓋の例えのとおり、狼の口が開いたような着物の綻びも塞がった。弥次郎は大事にされたので機嫌よく暮らしていたが、うかうかと十年が過ぎても相変わらずの貧乏世帯だった。 ところがある夜野次郎方に女づれの侍が現れ、妹を引き取れとの強談判。この女は弥次郎が府中で関係のあった女です。いろいろ事情があって弥次郎が、この女を妻にせねば侍の面目がたたぬと言う。それを聞いていた弥次郎の妻はいたって物わかりがよく、それでは私が身を引きましょうとあっさり家を出て行ってしまった。これが潮時と見切りをつけたのかも知れない。 しかし、これは実は弥次郎の仕組んだ狂言で、この二人は弥次郎の悪い遊び仲間、さる旗本の隠居が腰元に手をつけて孕ませたので、十五両の金をつけて片付先を探しているという話だった、弥次郎はそれを頂く魂胆で、邪魔者の嫁を追い出したと言う訳だった。 なぜ、十五両がほしいかと言えば、喜多八がそれだけの使い込みをしたからで、それを埋めてやらねば、彼の計画がおしゃかになってしまうから。 その計画とは、喜多八の奉公する店の主人は若い美人の女房をもらって腎虚して精気衰え、今日か明日かの容態。主人が死んだらこの若後家を手に入れ主人に納まる算段で、その為にはまず使い込みの穴を埋めておかねばと弥次郎は泣きつかれた。 ともかくその十五両つきの女がやってきて、弥次郎ほくほくのところ、こんどは喜多八の策略がばれてしまう。 実はこの女、喜多八の務める店の女中で、彼とねんごろになって妊娠し、始末に困った喜多八が十五両の金をつけて隠居のお手付きといつわり、弥次郎に押し付けようとしたことで、店の金を使い込んだなどと言うのは真赤な嘘だった。 喜多八の嘘がばれて立ち回りの真最中、女が産気づいて苦しみ始め、あっけなく死んでしまった。 両人は酒と肴を買ってこさせて酒盛りのあげく「サア サアこの元気で仏を桶へさらけこんで(投げ込んで)しまおう」。そのうち呼びにやった女の父親が現れて桶を覗きこみ「コリャハア違ったもし」「ナニ違ったもし」「仏が違い申した、この仏にゃ首がござらない。そしてわしの娘は女でござるに、コリャハア男の死人と見え申して、胸髭がはへてござらア」。話を聞いて駆け付けた大家が早桶を覗いて「イヤイヤ親父殿、気使いさっしゃるな。首はあります」。親父「あるとは、どこにあります」。大家「コリャア仏を逆さまに入れたのでござる」。親父「ハアそれで落ち着きました。コリャどなた様もご大儀でござる」。喜多八の奉公先の主人も今朝がた死んだ。 若後家が言うには「あれは平生心ざしのみだらな者、旦那様が死なれたらなおの事、女の主と侮って、どのような不埒をせまいものでもないから、辞めて貰いましょう」と若後家の意向で喜多八は首になった。ええいまいましい、げん直しだと言うので二人は伊勢詣りの旅に出ることになった。

どこか間が抜けた二人は、時々は喧嘩もするが、すぐに仲直りしてなんとなく気が合います。神田八丁堀に一人住いの弥次郎兵衛と言う怠け者と居候の喜多八。旅用の丈夫な草鞋に足ごしらえして千里膏を用意し、振り分け荷物を肩にかけ、お揃いの浴衣の裾を風にひるがえしなゆがら、伊勢参宮から大和・京都・大阪へと旅立った。 東海道は高輪から品川まで江戸湾の海辺を辿ります。はるか房総の山を望みながら、弥次・北の二人は鈴が森・大森、そして六郷川(多摩川)を渡って川崎の万年屋で昼食に奈良茶飯を食べた。日本橋からここまでは四里、約十五キロの道のりです。
※(陰間:男色を売った男娼)(千里膏:脚の疲労回復のためにつけた膏薬)(腎虚:房事過度による身体の衰弱)。
(「東海道中膝栗毛」「逝きし世の面影」「膝栗毛の世界」より)。「八つぁん」(6年8月とろろ茶屋。6年10月江戸の旅。7年4月都路往来。8年4月奈良茶飯。11年1月万年屋、京都伏見。11年5月街道風景。11年11月東海道)。(写真は明治四年頃の日本橋です)。

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2012年1月 7日 (土)

水の都

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かっての江戸は、堀や川などの水路が網の目のように張り巡らされた水の都だった。永井荷風は「日和下駄」の中で、水は江戸時代より継続して今日に於いても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、言うまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、ときに不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。 
東京の水を区別してみると。第一は品川の海湾、第二は隅田川・中川・六郷川の如き天然の河流、第三は江戸川・神田川・音無川の如き細流、第四は本所・深川・日本橋・京橋・浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如きその名のみ美しき溝渠、第六は江戸城を取り巻く幾重の濠、第七は不忍池、角筈十二社の如き池である。古来江戸名所の中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられてしまった。東京市は此の如く海と河と堀と溝と、仔細に観察し来たればそれら幾種類の水、即ち流れ動く水と淀んで動かぬ死したる水とを有する、頗る変化に富んだ都会である。
上野の不忍池は今日市中に残された池の中の最後のものである。江戸の名所に数えられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋ねる由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町屋となり、また赤坂の溜池も跡形なく埋め尽くされた。それによって私は将来不忍池も亦同様の運命に陥りはせぬかと危むのである。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。バリーにもロンドンにもあんな大きな、そしてあのように芳しい蓮の花の咲く池は見られない。
*(不忍池は、江戸湾の奥入江であったものが徐々に退水して残った海の遺構です。明治十七年、伊藤博文らによって池の周囲を埋め立て競馬場が造られました。 太平洋戦争中には、食糧増産のために田圃となりました。その後は、埋め立てて野球場にしょうと言う話が決まりかけた事もありました)。

今泉みね(安政二年築地で生まれる~昭和十二年没)は十四歳まで江戸で生活しました。築地は江戸湾や隅田川が真近にあったので、その情景は「名残の夢」で語られています。「大川をへだてて向こうはお船倉、ちょうどうちの窓の左の方に両国橋がすっかり見え、花火も大見えでした。橋番と言うものがいて、雪の日など焚き火してみんな酔っていたそうです。月夜の晩はまた好い景色でした。うちに物見があってちょうど屋根の上のようなところ、六畳敷きぐらいの板の間ですが、よくお客様をお連れして行ってそこでお月見もしました。『すみた川水の底まで涼しさの とほりてみゆる夏の夜の月』と、どなたやらのお歌にもありましたように、真底きれいで水晶をとかしたとでも申しましょうか・・・。物見のお窓から背伸びして垣間見た私の幼児の記憶に残っていますものの中で、美しかったとまぼろしのように憶い出でますのは、静かな水の面に浮かんだ屋根船でした。それが花見のころとか月のよい晩などには、よけい綺麗な人をたくさん乗せて、のんびりと川の面を行き交う風情はほんとに浮世絵もそのままでございます。 橋のあたりを船はすべるように行く、チャンチャラチャンと三下がりの都々逸かなにか、三味線の音は水にひびくようです。その調子やひびきに、まったく水は馴れています。そうして船頭は大抵浴衣一枚、それもほんとにちょっと手を通しているばかりなのを風に吹かせて、くるくるっと細く撚った手拭を頭にのっけてるようにした鉢巻き、そして振り回す棹の雫はバラッと玉のように散る、とても今は見られない味わい深い光景だったと思います。後になってもう一度見たり聞いたりしたいとの思いは止まないのでございます。
芝居見物に出かける日は、前の晩から大変です。楽しみのあまり眠られないほどだった。やがて七つ時にもなりましょうか。皆を起してそれからお支度になります。それ着物、それ帯といったように、皆の者はあちらにゆきこちらにゆき、立ったり座ったり賑やかなこと。いよいよ屋根船で浅草へ参ります。大勢の時は屋形船でございます。船着場へはちゃんと茶屋からの出迎えがありますが、手に手に屋号の紋入りの提灯を持って“ごきげんよう、いらっしゃいませ”と、いかにも丁寧に、手を添えて船から上げてくれます」・・・この続きは(八っあん9年5月・芝居見物)をご覧下さい。

家康は江戸に入ると、入江を埋めて掘割を造り、日本橋川・京橋川・楓川の岸を船着場としました。水路が整備されると川や運河沿いには、荷揚げのための河岸が七十ヵ所程造られたのです。河岸には船着場や荷揚げ場があり、河岸を仕切る河岸問屋または船問屋がありました。船を所有する船持や、船で働く水主、荷物を運ぶ馬を世話する馬持や馬子なども暮らしていました。また、往来する人たちのための茶屋や旅籠もあり、遊郭や賭場などを持っている河岸もあった。 河川の港としての河岸が発展したのは、江戸時代に入ってからです。江戸幕府は、江戸の防衛として、大船の製造を禁止し、街道においても荷馬車の禁止や、川への渡橋を禁止したりしました。そのため、陸路での物流の発展は阻害され、河川による物流に頼る必要があったのです。 河岸は物流だけでなく、寺社参詣や物見遊山の人たちも利用しました。河岸には大きな宿場や遊郭を持つものも現れ賑わいを見せた場所もあり、様々な人物の交流場ともなりました。
中央区に新川があります。新川河岸には上方からの酒を扱う酒問屋の蔵が集まって居ました。菱垣廻船で運ばれてきた灘の酒が、下舟に積み替えられて蔵に運び込まれたのです。 新川は江戸城外堀・浜町川と共に、東京大空襲の焼跡に残された瓦礫処理のために埋め立てられてしまいました。
(「日和下駄」「名残の夢」「大江戸まるわかり事典」「東京遺産」「Wikipedia」より)。(写真:吾妻橋)。
「八っあん」(6年3月三つ又の月見。6年10月日本橋魚河岸。6年11月両国橋。7年2月佃島の白魚、小名木川、神田川。7年8月永代橋。7年9月吾妻橋、千住大橋。7年10月不忍池、数寄屋橋。8年2月佃の花火。8年9月京橋大根河岸。8年11月垢離場。8年12月成田詣で(行徳河岸)。9年5月本所割下水。9年7月うろうろ舟、わかれの淵。10年4月川向うの島。10年5月隅田川の渡し、親子酒(新川河岸)。11年6月八ッ見橋。11年11月三つ又)。


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2012年1月 1日 (日)

江戸の豊かさ

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江戸時代は、戦国時代から価値観を大きく転換した時代です。江戸時代は循環の観念を持っていて、生活のシステムそのものが循環型であり、質素倹約を理想としていました。私たちが既に捨ててしまった「始末」という考え方がありました、始まりと終わりをきちんとして循環が滞らないようにすることであって、際限のない膨張や連続や増加は考えてもみなかったのです。人の一生でさえ、六十歳を迎えればもとに戻ったのです。(還暦:江戸時代は人生五十年といわれ、還暦を迎えられることは目出たい事なので、赤い頭巾を被り、赤いチャンチャンコを着て“もう一度生まれた年の干支を迎え、生まれ変わって生きる”という意味の儀式で、赤い色は赤ちゃんの意味です)。

江戸の職人は、百年も二百年も持つ道具や建築物や紙や布を作ることを誇りにしていました。それは、物は一回使ったから終わりなのではなく、変化させながら何百年も生きたからです。たとえば紙は幾度も漉き返されて使われ、最後は燃やされるが、その灰は買い取られて使われるのです。「花咲か爺さん」の童話は架空の物語ではなく、実際の生活を語ったものです。着物は、多くの人が古着屋の吊るしを買ったのですが、何枚も持つ必要はなく、襟を付け替えたり、合わせにしたり、綿入れにしたりしながら何度も着たのです。寒ければ重ね着もしました。 洗い張りに出し、古着屋に売っては、また古着を買う。いよいよ擦り切れたら、前掛けや布団皮、袋物にする。寿命が尽きれば焼かれて灰になって、灰買いが買い取って行ったのです。 京橋より下流の川の北側には竹河岸がありましたが、竹の皮は現在のラップと同じように食べ物を包み、竹そのものは箒や熊手、こし器やザルや笠などあらゆる日用品に変身して使われたです。 屎尿も「肥やし」といわれ「土を肥やす物」として利用されたです。江戸の下肥は近郊農村に買い取られていって、土をよみがえらせていました。江戸は清潔な都市であると外国人が絶賛していますが、それはこのような理由によるのです。江戸時代までの日本では、産業そのものが生命の繋がりの中でとらえられ、それゆえ、徹底的な循環と育成が行われていたのです。

「分をわきまえる」という考え方があります。江戸時代は、力でのしあがる戦国時代までの競争社会、拡大主義の流れをやめて、秩序を持った縮小社会に収める時代でした。 社会秩序を保とうとするとき、自分の「分」がどの程度であるのかの認識は必要なことなのです。分とは他者と区別する自らの範囲を意味し、それは自らを収めようとする倫理観を導き出します。「起きて半畳寝て一畳、飯を食っても五合半」という諺がありますが、人間生きていくために際限なくむさぼる必要はないのです。最低限どの程度のことが必要なのか、自分はどこまでなら他者を侵さず生きていけるか、それを考えるのが「分」なのです。

江戸時代直前の戦国時代では「全国統一」という望ましい秩序のために内戦が正当化された時代です。江戸時代も決して非暴力の時代ではなかった。しかし「非暴力の精神状態、生き方」に、確かに時間をかけて移行しょうとした時代だったのです。 拡大の戦国時代から、縮小の江戸時代は「配慮と節度」という倫理観を社会が打ち立てました。それを「質素倹約」と表現しました。「もったいない」という、今では有名な言葉ですが、実践されていないのが実態です。戦国時代の戦争から学ぶものは何もありません、戦争は人類が乗り越えるべきもので、考察するに足らないものです。 江戸時代の為政者にとって世界の中で自立すると言う事は、軍事的に優位に立つことを意味しなかったのです。かの、豊臣秀吉は二度にわたって朝鮮半島出兵を行いました。一度目はアジア全体の支配を妄想した結果だった。ところが敗北して撤退したにも関わらず、信じ難いような和議案を出して蹴られると、二度目の侵略を実行したのです。これにも失敗して撤退しました。この足かけ七年に及ぶ戦争で、日本は三十万人の兵を朝鮮に送って、十万人の死傷者を出したと言われますが、この戦いに徳川家は出兵しなかったのです。その後、豊臣家は疲弊のため、いとも簡単に徳川軍に敗れて権力を失ったのです。 この思いつきの戦争は、中国と朝鮮の日本へのイメージを固定化させてしまいました。 豊臣秀吉は一国の為政者ではなく「倭寇の棟梁」とアジアから受け取られていたのは、ヨーロッパ並みに野蛮な行動をしたからです。 

新たな体制を創造した江戸時代は、外に出て行くより内戦を終わらせることを目標としました。外国を支配して収奪することより、自分達の技術を高めて良い物を作り出すことを良しとしたのです。 欧米の進歩に追い付けなかった日本が、ようやく目覚めさせられた「夜明け」という解釈は、幕末維新期について言われることですが、当人たちが「闇」だったとは思っていないのに「夜明け」もないものです。 日本が追い付けなかったのは、植民地における原材料調達と、工場生産システムによる大量生産と、大規模市場開拓との組み合わせからなる「産業革命」なるもので、科学でも医学でもなかったのです。

平和のある処には、ほかの文化、ほかの国々、ほかの宗教など、他者の恐怖は存在しません。平和は「他者」など存在しないという感覚を与えてくれるからです。自分を他人から分け隔てているのはレッテルであり、自らのアイデンティティなのです。江戸にはアイデンティティが不在だった、自己がないと言う事は他者がないということなのです。 文明開化とやらで時代が近代に突入したとたん、ナショナリズムというアイデンティティを発揮して、日清日露の戦争に突き進み、琉球、朝鮮、満州等々を支配して喜んでいたのです。その思いあがりの果てが、邦人三百万人、アジアで二千万人の犠牲者を出し、最後は原爆投下で、美しい日本を滅茶苦茶にしてしまった太平洋戦争だったのです。

渡辺京二「逝きし世の面影」という本がありますが、冒頭で、日本近代が前代の文明の滅亡の上に打ち立てられたのだと言う事実を鋭く自覚していたのは、当時の外国人たちであると書いてます。 日本人の陽気さ、満足感、幸福感、そして、自己顕示欲や競争心がない、当時の簡素な生活を描写してますが、これは実像だと思います。 鼻先に人参をぶら下げられた馬のような人生を送らなくて済む安定感、笑い上戸で冗談が大好きで、好奇心に溢れた日本人。 当時の欧米人の書いたなかで、最も驚かされるのは、民衆の生活の豊かさです。その豊かさは最も基本的な衣食住に関する豊かさなのです。 ところが別の外国人の記述では、町中には乞食が多く見られるし、街道には行き倒れが転がっている。娘を売るという忌まわしい奴隷化は、大変に遺憾なことである等と書いてるものもあります。 その同じ日本人が、今は金を稼ぐことにやっきになって、過労死と老後の不安とワーキング・プアに苦しんでいるとは、明治以前とは随分違ってしまったものです。江戸の庶民のほうが、経済的にはずっと貧しかった筈です。病気も簡単には治らなかったし、幼児死亡率も高かった。しかし、幸を感じながら、屈託なく生きていたのです。 明治の文明開化以降、循環と引き換えに取り入れた、勝ち負けを争う自由競走と暴力は、バランスを保つことが出来ません。常に誰かが勝つために戦い続けなければならない。これが、勝ち負けを是とするグローバリズムの行き着く果てです。 財政・金融政策以外は市場原理に任せよとする「新自由主義」。社会保障など無用だと主張するフリードマン等は、世界には強い者が生き残れば良いのだと言うのです。まあ、色々な考え方があるものです・・・。 

江戸時代は、人間が人間らしく生きていました。分を弁え、自然の中で生かされているという謙虚な心が「もったいない」に通じたのです。近代になって利便性を追い求め続けて来た結果が原発事故です。今の技術をもってすれば原子力を制御できると言い切る人もいますが、核燃料廃棄物の処理方法も未だに確立されてはいません。今回の原発事故は、停電もなく使い放題の生活に甘んじてきた有り様を、我々が真剣に考え直す機会になったと思います。 

昭和初期の経験から言いますと、戦前・戦中・戦後の貧しかった時代、隣近所には濃い人間関係がありました。回りも同じように貧しかったのですから、お互いに助け合おうという気持ちが、自然に培われたのでしょう。 経済的に豊かになった現在はどうですか、他人と関わらなくても、金さえあれば自分一人でも生きていけます。 ところが、此処の団地で、独り暮らしの人が死んでいるのに、三ヶ月間、誰も気付かなかった事件が起きました。団地自治会では孤独死ゼロを目指す運動を展開して効果を上げています。 生活は便利過ぎるほど便利になりましたが、人間関係は薄っぺらになってしまいました。 ところが、東日本大震災で見せた、日本人の強さ、秩序ある行動は、世界から称賛されています。人間が生きていく為には「絆」が必要なんだと言うことを、極限にあって初めて気付かされると言えるのでしょうか。 

(「未来のための江戸学」田中優子著)から「江戸の豊かさ」で纏めてみました。法政大学教授の田中先生は、庶民、遊女、非差別民など、歴史の表舞台に登場しない民衆に着目して江戸時代を研究されている方です。また、江戸時代を中心とする日本文化の特質「連」の働きを提起した「江戸の想像力」で、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞され、江戸ブームの火付け役となった方です。


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