満州慰問

五代目古今亭志ん生は、「師匠、どうでしょう、一月ばかりの予定で、満州まで行ってくれませんか、銭は三千円出しますし、それに向こうにゃァ、まだ酒がウンとあるそうですから・・・」との興行師の話を聞いた。満州には酒があると言うので、終戦真近の昭和二十年五月に三遊亭円生と満州へ慰問に出かけました。
そのうち、ソ連の兵隊が攻めてくるってえ話になった。さァ、グズグズしちァあいられません。どうしょうかと思っているところへ、大連から円生とあたしに「二人会」をやってくれってえ話がきたから、これ幸いとばかり、逃げるように大連へ行きましたが、非難する人で一杯でしたよ。なんでも、一番最後の汽車だったようでした。 大連はてえと、そりゃァ町中蜂の巣を突っついたような騒ぎで、日本もとうとう駄目だ、男てえ男は全部斬り死にで、女てえ女は全部青酸カリで自殺するんだてんで、もう手がつけられません。顔色なんぞありゃァしない。 いや、実にどうも、色々な噂が乱れ飛びましたね、良い話なんぞ一つもない。でもあたしゃァ、その時、こりゃァきっとデマに違えねえと思いましたね「べらぼうめ、日本がそうたやすくお手上げになるもんか、負けてたまるけぇ」と、タカをくくってましたよ。 だってそりゃァそうでしょう。あたしらのガキの時分、日清、日露の戦争があって、あんな大きな国を相手にしたって勝ったんです。「日本ぐれえ強い国は、世界に二つたァねえだろう。ありがてえな、どうも」と思っていた。その前だって後だって、日本は只の一度だって負けたことなんぞありゃァしない。今は、そりゃァ苦しいかもしれないが、そのうちにきっと勝つだろう・・・と信じて、降参するなんてぇことは夢にも思わなかった。ところがどっこい、本当に負けたと分かったときの悔しさ、なさけなさなんてえものは、とってもとても言葉の外です。内地にいればいくらか自由もきくだろうが、負けた上に敵さんの土地だてえんですから、生かすも殺すも向こうさんの気持ち次第、泣こうにも涙も出ねえてえ心境でしたよ。 ソ連兵の顔ォ見る前は、支那人だの朝鮮人だのってえ、今まで日本人の味方だったのが、ガラッと手のひら返したように威張り始めたのは、よけい悔しい思いでした。でも、どうする事もできやしません。ただもう、歯ァ食いしばって我慢するよりほかありません。
そんな空気の中で、あたしたち「二人会」をやったんですよ。ソ連が進駐して来るてえその前の晩のことなんです。こんなお国の一大事のときに落語の会どころじゃなかろうと思ったが、主催者は、前もって日ィ決めてあることだし、会場も用意してあるんだから、今更止めるわけにはいかねぇと言うから、そいじゃァ行くだけ行ってみようよ、てえんで、円生と二人でそこの映画館へ出かけてみるてえと、八十人ばかりの客がちゃんと銭払って来ているんですよ。「明日ァソ連の兵隊が来て、みんな死んじまおうと言うのに、よくまァ、あんたたち、落語なんぞ聞きに来る気持ちになれますねぇ」って、あたしが聞くてえと「いやァ、どうせ死んじまうんだもの、せめて思いきって笑って死にたいと思いましてねェ・・・」と、みんな案外落ち着いたものです。あたしたちも、落語なんぞやれる心境じゃなかったが、ぜひ聞きたいと頼まれると、もう手前勝手の了見で断るわけには参りません、円生だって同じですよ。「じやァ、お箱を二席ずつやろうよ」てえことになって、あたしゃァ「居残り佐平次」と「錦の袈裟」をやりました。「居残り佐平次」は、品川遊廓へ遊びに行って、さんざん騒いだあげくに銭払わないで居残りになる。「錦の袈裟」は、町内の若い衆が吉原遊廓にくり込んで、何か変わった遊びをしょうてんで、みんな錦の褌を揃えた、与太郎はお寺で錦の袈裟を借りてきたのです。(「びんぼう自慢・古今亭志ん生」より)。
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