維新の混乱
御維新の昔を思うと今さら夢のようでございます。まるで大火事でもあって、江戸中が焼けていくのも同じで、大変な騒ぎでした。男の児は腹を切ること、女の子には自害の仕方を教えますが、大抵は大人が付いていて介錯をしてくれますから、ただにっこり笑って死んでいけばいいのです。私は父から短刀を渡され、本所割下水の叔母の嫁ぎ先へ立ち退きました。ちょうど上野の戦争の時かと思いますが、官軍は武器に困って、方々旗本屋敷に入っては、何かしらそういう道具を求め歩いていたらしゅうございまして、叔母の家にもいち早くやって来ました。 こちらは、どうしてやるものかと家中総がかりで、鉄砲や弾丸をお庭のお池の中へ放り込みました。どんどん踏み込んで持って行くものと思い込みましたので、大急ぎで隠したのでした。ところが官軍の中から二三人の主だった人が座敷に上がり込んで、叔母と対応していました。
叔母は女ながらにキリットしていました。談判は三時間位もかかったようです。私は、女中達が皆怖がって引っこんでしまいましたので、お茶を運んでそこへ出ました。官軍は煙草をのんでいたようでしたが、大変優しく丁寧に挨拶を致しました。黒い西洋服に、襟が白だったのが今も眼に残っています。みんな眉の濃い、せいの高い、怖いような人達でした。叔母は黒の五つ紋の正装で、九寸五分を懐にして、いかにも武士の妻という風でした。それこそ、何十人をでも相手に死に様を考えてかかった話ですから、女でも論判がよかったと言う評判でした。死を決してかかった様子は先方にも通じると見えまして、向こうもどこまでも丁寧でした。 鉄砲は今となっては徳川では使わないのですから、かえって厄介物くらいですが職務上自分の方で処置しないで、官軍に取られてしまったとあっては武門の恥辱になる。手続きをふんでお渡しいたしたいと叔母が仰いました。私はそばから「出せなんて仰っても、お使いになるから出せません。それでどんどん私達の味方をお撃ち遊ばすからいやでございます」。ところが、官軍は案外情けがあり礼儀もあって、むこうでも、それをわきまえていて、無理に召し上げて行くとは言いません。最初は少し変な顔をしていましたが、だんだん打ち解けて来て、「自分達は、そういう役でやってきたのではない。どういう物か、何処にあるか拝見するつもりで来たのだ」と申しましたが、叔母は「お見せすることもできません」と、とうとう見せませんでした。こんな穏やかなこととは思わず、慌ててみんな池に放り込んでしまったのですから、今更見せるわけにもいかなかったのでしょう。
そのうち日をきめて御宅といっしょに引き取りに来ますから、それまでそちらで御随意にお取締を願います、といって官軍は引き取りました。言わば、お隠しなさいと言わんばかりでした。官軍さんは鬼のように思っていたら好い人だ、こちらにも同情をもっていると思いました。そのあと、皆は早速お池に入って、鉄砲を取り出していました。着物を濡らすまいと思って、裾を捲っている姿がまだちらつきます。鉄砲は大きく重くって大変でした。池から放り出して池の淵にずっと干してありました。弾は箱に詰めましたが濡れているので、私が「始末が悪いわ」と言って叱られました。
叔母の屋敷も召し上げられまして、静岡の方へ移る事となりました。みんな公方様にお伴をする精神でも、静岡が人でいっぱいになってしまう程のお家来でした。何しろ八百万石の落ちぶれなのですから、めいめいで身の振り方を考えなければなりませんでした。私の父も、御維新後はまるで人が変わったようになりました。家柄だの身分だのという事はすっかりなくなってしまいました。今まで知っていたことさえも知らなくなって医者もしない、付き合いも一切やめて、ほんの素町人で終わりたいと申して名前も変えました。 やがて、浅草で薬屋を開くことにしました。 家伝の妙薬と言われた「金竜丸」という丸薬や止血散などを売っていた事を覚えています。私も馴れない手つきで、一生懸命丸薬の包みをこしらえたりしたものでした。 (「名残の夢・今泉みね」より
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