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2012年2月

2012年2月24日 (金)

維新の混乱

御維新の昔を思うと今さら夢のようでございます。まるで大火事でもあって、江戸中が焼けていくのも同じで、大変な騒ぎでした。男の児は腹を切ること、女の子には自害の仕方を教えますが、大抵は大人が付いていて介錯をしてくれますから、ただにっこり笑って死んでいけばいいのです。私は父から短刀を渡され、本所割下水の叔母の嫁ぎ先へ立ち退きました。ちょうど上野の戦争の時かと思いますが、官軍は武器に困って、方々旗本屋敷に入っては、何かしらそういう道具を求め歩いていたらしゅうございまして、叔母の家にもいち早くやって来ました。 こちらは、どうしてやるものかと家中総がかりで、鉄砲や弾丸をお庭のお池の中へ放り込みました。どんどん踏み込んで持って行くものと思い込みましたので、大急ぎで隠したのでした。ところが官軍の中から二三人の主だった人が座敷に上がり込んで、叔母と対応していました。
叔母は女ながらにキリットしていました。談判は三時間位もかかったようです。私は、女中達が皆怖がって引っこんでしまいましたので、お茶を運んでそこへ出ました。官軍は煙草をのんでいたようでしたが、大変優しく丁寧に挨拶を致しました。黒い西洋服に、襟が白だったのが今も眼に残っています。みんな眉の濃い、せいの高い、怖いような人達でした。叔母は黒の五つ紋の正装で、九寸五分を懐にして、いかにも武士の妻という風でした。それこそ、何十人をでも相手に死に様を考えてかかった話ですから、女でも論判がよかったと言う評判でした。死を決してかかった様子は先方にも通じると見えまして、向こうもどこまでも丁寧でした。 鉄砲は今となっては徳川では使わないのですから、かえって厄介物くらいですが職務上自分の方で処置しないで、官軍に取られてしまったとあっては武門の恥辱になる。手続きをふんでお渡しいたしたいと叔母が仰いました。私はそばから「出せなんて仰っても、お使いになるから出せません。それでどんどん私達の味方をお撃ち遊ばすからいやでございます」。ところが、官軍は案外情けがあり礼儀もあって、むこうでも、それをわきまえていて、無理に召し上げて行くとは言いません。最初は少し変な顔をしていましたが、だんだん打ち解けて来て、「自分達は、そういう役でやってきたのではない。どういう物か、何処にあるか拝見するつもりで来たのだ」と申しましたが、叔母は「お見せすることもできません」と、とうとう見せませんでした。こんな穏やかなこととは思わず、慌ててみんな池に放り込んでしまったのですから、今更見せるわけにもいかなかったのでしょう。
そのうち日をきめて御宅といっしょに引き取りに来ますから、それまでそちらで御随意にお取締を願います、といって官軍は引き取りました。言わば、お隠しなさいと言わんばかりでした。官軍さんは鬼のように思っていたら好い人だ、こちらにも同情をもっていると思いました。そのあと、皆は早速お池に入って、鉄砲を取り出していました。着物を濡らすまいと思って、裾を捲っている姿がまだちらつきます。鉄砲は大きく重くって大変でした。池から放り出して池の淵にずっと干してありました。弾は箱に詰めましたが濡れているので、私が「始末が悪いわ」と言って叱られました。

叔母の屋敷も召し上げられまして、静岡の方へ移る事となりました。みんな公方様にお伴をする精神でも、静岡が人でいっぱいになってしまう程のお家来でした。何しろ八百万石の落ちぶれなのですから、めいめいで身の振り方を考えなければなりませんでした。私の父も、御維新後はまるで人が変わったようになりました。家柄だの身分だのという事はすっかりなくなってしまいました。今まで知っていたことさえも知らなくなって医者もしない、付き合いも一切やめて、ほんの素町人で終わりたいと申して名前も変えました。 やがて、浅草で薬屋を開くことにしました。 家伝の妙薬と言われた「金竜丸」という丸薬や止血散などを売っていた事を覚えています。私も馴れない手つきで、一生懸命丸薬の包みをこしらえたりしたものでした。 (「名残の夢・今泉みね」より

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2012年2月17日 (金)

東京駅復原

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東京駅は明治三十九年(1906)に辰野金吾が設計したものです。オランダのアムステルダム中央駅を模したとされ、赤煉瓦造りのルネッサンス様式が取り入れられました。明治期に流行した赤煉瓦建築の中で、東京駅は最終かつ最大のものとされます。 工事に使われた煉瓦は、組立用が約8,332,000個、化粧用は約944,000個と言われます。 東京駅は大正十二年の関東大震災では殆ど被害を受けなかったのですが、昭和二十年五月二十五日の米軍の空襲で焼失しました。 八重洲口の木造駅舎も焼失して、東京駅は鉄路は残ったものの瓦礫の山でしたが、駅を閉鎖することなく営業を続けていました。私は東京駅を利用してましたが、煉瓦は崩れ、鉄骨は焼けて垂れ下がり、改札前のドーム下の広場は、ドームが焼け落ちた為に青天井でしたので、雨の日は傘をさして改札まで行ったのです。 昭和二十二年に、三階を撤去して二階建てとし、両側のドーム屋根も形を変えて復旧しましたが、 国鉄の上司が「みな駅の中を傘をさして歩いているではないか、すぐ屋根をかけろ」との命令で、四五年もてばいいと、応急処置で三角屋根を架けたのです。

昭和六十二年春、問題が起きました。中曽根首相は「民間活力導入」をうたい、山手線内側はすべて七階以上にせよと主張していました。民営化に踏み切った旧国鉄用地を中心に、オフィスビル建設を促進せよと言いだしたのです。膨大な赤字を抱えて民営化したJR、その駅舎空間は「有効利用が当然」というムードが前提にあったのです。 東京駅が取り壊されるかもしれない。
政治力のある某有名建築家が超高層化のビル設計を提案し、大臣室にその模型が飾られていました。 「これは住民運動でやるしかないね」と言う事になって、高峰三枝子、三浦朱門等の著名人、文化人など360名が発起人となって「赤煉瓦の東京駅を愛する市民の会」として、JR本社と東京駅長に要望書を提出しました。また、10万人署名をめざして、東京駅前や銀座ソニービル前で、街頭署名を行った。全国から署名が続々と集まり、わずか半年で、100,198名を数えました。その後、石原都知事との合意によりJR東日本は東京駅の復原を決めました。2003年4月、東京駅は持主の同意を得て国の重要文化財に指定されました。

平成十一年、石原東京都知事が、東京駅舎を開業当時と同じに再建し、丸の内広場や皇居までの行幸通りを煉瓦敷きの歩道に整備する計画を発表しました。※2010年4月12日に行幸通りが開通しました。駅舎の一部(一階部分)開業は2012年6月10日で、全面開業は同年10月です。 
復旧解体工事に伴い、屋根材に使用していた天然スレート65,000枚は産地でもある宮城県石巻市の業者に送られて、選別の上で清掃補修後倉庫に保管していたが、東日本大震災での津波に遭いJR東日本は塩害を理由に使用を見送る意向を示した。
その後の調査の結果、65,000枚のうち45,000枚が使用可能と判断され、不足分をスペイン産で補う事としました。

東京駅は、大正十年(1922)原敬首相が暗殺され、昭和五年(1930)浜口雄幸首相が狙撃され翌年死亡するなど、歴史の舞台にもなりました。  

(「駅名で読む江戸・東京」「東京遺産」「Wikipedia」より)。(写真:東京駅復元工事)。


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2012年2月10日 (金)

山岡鉄舟

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台東区谷中さんさき坂に臨済宗全生庵があります。明治十六年(1883)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため山岡鉄舟が建立した寺です。寺には山岡鉄舟の墓「全生院殿鉄舟高歩大居士」と供に、明治33年62歳で死去した初代三遊亭円朝の墓があり、墓石には山岡鉄舟の筆になる「三遊亭円朝無居士」とあります。八月十一日の円朝の命日には全生庵で、落語協会主催の「円朝まつり」が行われ、協会の落語家総出で催しが行われます。

山岡鉄舟は、天保七年(1836)江戸大川端四軒屋敷の官邸に生まれ、水道の水で産湯をつかい、のちに父に従って飛騨で育った。再び江戸に帰る頃から、剣道や槍術の名人になり、千葉周作の真影流を卒業して、無力流なる一派を開いたのです。鉄舟は剣・禅・書の達人として知られ、禅道の弟子に三遊亭円朝らがいたのです。 書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地に鉄舟の書が残っています。一説には生涯に百万枚書いたとも言われています。 上野戦争で犠牲になった彰義隊士の遺体を塵溜の大きな穴を使って荼毘にふした場所が、西郷銅像の後ろにあります彰義隊士墓所ですが、三ノ輪の円通寺にもあります彰義隊士の墓所と共に、山岡鉄舟の筆になる「戦士之墓」の墓碑があります。 木村屋のあんパンを好んだ鉄舟は、木村屋の看板も書いてます。

鉄舟の行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業を成し遂げられない」と賞賛させました。将軍慶喜が鳥羽・伏見の戦いから逃げ戻ったとき、鉄舟は慶喜に向い「あなたは恭順と見せかけて、何かやろうと言うんでしょう」と無遠慮な質問を浴びせた。「いや、そうではない。神明に誓って恭順するのじゃ」と聞くと、その足で軍事総裁・勝安房を訪い「将軍の誠意を、官軍へ申達してくる」と言いだしたのです。 勝はかねて山岡が粗暴でいかんと言う評を耳にしていたから、躊躇したが、鉄舟は「官軍だって、無暗に人を殺しはしまい」と六郷川を渡り、官軍が銃剣を組んで並んでいる中を「朝敵、徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎罷り通る」と威張って通り抜け、小田原で大西郷と会見したのです。会談後、鉄舟は「さァ俺は、官軍の前衛破りだ。縄をかけ給え」と言うのを、西郷は笑いながら「まァ一杯飲みましょう」と誘った。帰りには、陣営通行符を与えて去らせたのです。

この東京が何事もなく、百万の市民が殺されずに済んだのは実に西郷の力で、その後を引き受けて、この通り繁盛する基を開いたのは、実に大久保の功だ。それゆえにこの二人のことを我々は決して忘れてはならない。 あの時、俺はこの罪もない百万の生霊を如何にせうかという事に、一番苦心したのだが、もはやこうなっては仕方がない、ただ至誠をもって利害を官軍に説くばかりだ。官軍がもしそれを聴いてくれなければ、花々しく最後の一戦をやるばかりだと決心した。 それで山岡鉄太郎(鉄舟)が静岡へ行って、西郷に会うと言うから、おれは一通の手紙を預けて西郷に送った。 山岡という男は、名前は聞いていたが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考えだから用心せよと言うので、ちっとも会わなかったのだが、この時の面会は、その後十数年間の交わりを結ぶもとになった。(氷川清話・勝海舟)。

勝海舟は、官軍が三道より江戸に迫り、その沿道の諸藩ことごとく官軍に忠節を誓うという状況では、抗戦してもとうてい見込のないことを見抜いていた。軍事的には勝算もあったが、政治的には絶望であった。民衆が完全に幕府を見放していたのです。勝は、徳川家を存続する唯一の道は、慶喜がひたすら謝罪恭順するほかないことを、熱心に慶喜に説いたのです。勝は、小栗上野介の言うように、フランスの援助を受けて官軍と戦えば、イギリスが官軍を援助するようになるかも知れず、内乱に外国軍を介入させれば、それは日本全体の破滅のもとであるから、それだけは避けねばならぬと考えていたのです。 西郷隆盛もイギリスが援助を持ちかけた時「我が国の政体変革のところは何れとも我々の尽力いたすべき事にて、外国の人に頼む面皮は持ち合わせていない」ときっぱり拒絶したのです。

(「日本の歴史」「江戸から東京へ」「氷川清話」「Wikipedia」より)。(写真は山岡鉄舟)。
 


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2012年2月 4日 (土)

いろはにほへと

私は男の子が師匠の周囲に座って、授業を受けているのを見たことがある。彼等は文字の意味を知ろうとして、何度もそれを口に出して唱えている。 母音と子音には分類していないが、日本語の音声を四つの節に分けてアルファベットの一種「イロハ」を繰り返しているとのことであった。その数は48であるが、それを文法的に配置せずに、小さな詩の形にしているのである。 それは次のように聞こえた「イウォラ ニウォウェド ツィリヌル ウオ ウァガヨ ダレツォ ツゥネ ナラム ウイイ ノ オクヤマ キョフゥ コエテ アサキ イュメミシエヴィモ セズ ウン」。この東半球の端において、我々と全く同じ不死の創造物である人類の幾百万という少年達が、毎日繰り返している詩に私は興味を感じた。そして、次のような意味があることを知り、驚かされた。「色も香いも、消えていく。我々の世界において、何か永久的なものがあり得るだろうか? 今日の日は、虚無の深淵の中に消滅していき、その儚さは、夢のようである。それは、微細な不安すら残さなかった」。正直なところを言うと、この民族的なアルファベットは、どんな書物よりも、よの多くの日本人の基礎的性格に関する真実を私に語った。長い世紀にわたって、舞台から去って行く世代が、新しく登場する世代に対し「この世界には、永久的なものは何もなく、現実は夢のように過ぎて行き、そして、その消滅は何の不安も残さなかった」と言う事を繰り返して教えているのである。 現世に対するこのような哲学は、現世が人間性の要求を満足させるものではない事を教え、こうした宗教観の表現がこの国に与えた恐るべき結果が、これを実証している。 日本人の生活様式は、人生を感覚的な現象の側からのみ見ている。このため、彼等は瞬間的な印象のもとに生活し、人生の苦楽や困窮に会っても、なんらの不平を持たず、死ですらも宿命的な性格が与えられて、平凡な日常の些事として見られようとしているのである。
(「絵で見る幕末日本・エメェ・アンベール」より)。アンベールは文久三年(1863)来日し、日本とスイスとの間に最初に修好通商条約を開いた功労者。

「いろは歌」
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に例えたものです。中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきましたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常観を歌った歌と解釈してきました。しかし、この歌は古文献においてすら表記が確定していない。「夢」や「酔」が何を意味するかも多様な解釈があり、結局のところ文句の意味の確定した説明は、現時点では存在していない。(「Wikipedia」より)。

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2012年2月 1日 (水)

陸蒸気

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明治十一年(1878)五月、イサベラ・バードは、横浜ー新橋を鉄道で移動した。東京と横浜の間は、汽車で一時間の旅行である。長さ18マイルの複線で、横浜駅は立派な石造りである。等級別の広い待合室があるが、日本人は下駄を履く事を考慮して絨毯は敷いてない。どちらの駅にも広くて上がつき石を敷き詰めたプラットホームがあって、回り木戸をつけた関所を設けてある。ここは特典のある者でない限り、切符がない者は誰も通れない。切符切りは中国人、車掌と機閑手は英国人、その他の駅員は洋服を着た日本人である。駅の外には辻馬車ではなくて人力車が待っている。これは人間ばかりでなくて手荷物も運ぶ。手に持つ荷物だけが無料である。 英国製の車両は、英国にあるものとは違っていて、左右の両側に沿って座席があり、両側にドアがあってプラットホームに対して開くようになっている。 一等車は深々としたクッション付きの赤いモロッコ皮の座席を備えた贅沢なものだが、殆ど乗客はいない。二等車の居心地のよい座席も、立派なマットが敷いてあるが、腰を下ろしているのは実にまばらである。しかし三等車は日本人で混雑している。彼等は人力車と同じように鉄道も好きになったのである。この路線は一年に約800万ドルの収入がある。 切符は東京行きではなく、品川か新橋まで買う。 品川も新橋も元は村であったが、大きくなって都に編入されたものである。品川に着くまで江戸は殆ど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、煙を出すこともない。寺院も公共建築物も、めったに高いことはない。寺院は深い木立の中に隠れていることが多く、普通の家屋は20フィートの高さに達することは稀である。 右手には青い海があり、台場を築いた島がある。大きな築山に囲まれた林の庭園もある。何百隻という漁船が入江に浮かんでいるのもあれば、浜辺に引き上げられているのもある。左手には広い街道があり、人力車の往来が激しい。道傍には、低い灰色の家屋が建ち並ぶ。その大部分は茶屋や商店である。
「江戸はどこにあるか」と私が訪ねている時、汽車は終点の新橋駅に入って止まると、200人の日本人乗客を吐き出した。 合わせて400の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった。この人達は下駄を履いているから3インチ背丈が伸びるのだが、それでも5フィート7インチに達する男性や、5フィート2インチに達する女性は少なかった。しかし、和服を着ているので、ずっと大きくみえる。 和服はまた、彼等の容姿の欠点を隠している。痩せて、黄色く、それでいて楽しそうな顔付きである。色彩に乏しく、くっきり目立たせる点もない。女性はとても小柄で、よちよち歩いている。女性の髪は、すべて額のところから後ろに梳いて、束髪の髷を作っている。男達は、前髪を剃り、後ろ髪を束ねて奇妙な髷を作り、前方の剃った跡の上に引き寄せて(ちょん髷)いるほかは、3インチ程伸びた粗い髪が、頑固にも左右に分けもせずモジャモジャ髪になっている。

日本の鉄道開業は、新橋 - 横浜間が明治5年(1872)9月12日(天保暦、翌年から採用されたグレゴリオ暦では10月14日)に正式開業を迎えました。 政府内部では兵部省が「もし横浜から鉄道を利用して外国軍隊が東京に侵入したら防ぐすべがない」と鉄道建設に反対し測量を妨害したので、やむなく路線変更をして、御殿山を切り崩して海岸を埋め立て、海中に鉄道の土手を築いてやっと完成の運びになった。 民部車輌はすべてイギリスから輸入され、蒸気機関車10両はすべて車軸配置のタンク機関車でした。客車はすべて2軸車で、上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両、緩急車8両が輸入されたが、開業前に中等車26両は定員52人の下等車に改造された。当時の客車は台車や台枠は鉄製だが壁や屋根を含む本体は木造であり、この改造は練達の日本人大工の手によって実施された。鉄道員には士族が多かったため、乗客への態度は横柄なものであったといわれる。機関車を運転する機関士は外国人で、また運行ダイヤ作成もイギリス人に一任されていました。 当時の庶民はこの見世物を弁当持ちで見物にいった。なかには横浜までの片道切符だけで陸蒸気(おかじょうき)に乗って行き、帰りは一泊どまりの徒歩で帰ってきた者も居たそうです。
(「日本奥地紀行:イサベラ・バード」「Wikipedia」「東京時代」より)。(写真は当時の列車です)。

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