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2012年2月 1日 (水)

陸蒸気

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明治十一年(1878)五月、イサベラ・バードは、横浜ー新橋を鉄道で移動した。東京と横浜の間は、汽車で一時間の旅行である。長さ18マイルの複線で、横浜駅は立派な石造りである。等級別の広い待合室があるが、日本人は下駄を履く事を考慮して絨毯は敷いてない。どちらの駅にも広くて上がつき石を敷き詰めたプラットホームがあって、回り木戸をつけた関所を設けてある。ここは特典のある者でない限り、切符がない者は誰も通れない。切符切りは中国人、車掌と機閑手は英国人、その他の駅員は洋服を着た日本人である。駅の外には辻馬車ではなくて人力車が待っている。これは人間ばかりでなくて手荷物も運ぶ。手に持つ荷物だけが無料である。 英国製の車両は、英国にあるものとは違っていて、左右の両側に沿って座席があり、両側にドアがあってプラットホームに対して開くようになっている。 一等車は深々としたクッション付きの赤いモロッコ皮の座席を備えた贅沢なものだが、殆ど乗客はいない。二等車の居心地のよい座席も、立派なマットが敷いてあるが、腰を下ろしているのは実にまばらである。しかし三等車は日本人で混雑している。彼等は人力車と同じように鉄道も好きになったのである。この路線は一年に約800万ドルの収入がある。 切符は東京行きではなく、品川か新橋まで買う。 品川も新橋も元は村であったが、大きくなって都に編入されたものである。品川に着くまで江戸は殆ど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、煙を出すこともない。寺院も公共建築物も、めったに高いことはない。寺院は深い木立の中に隠れていることが多く、普通の家屋は20フィートの高さに達することは稀である。 右手には青い海があり、台場を築いた島がある。大きな築山に囲まれた林の庭園もある。何百隻という漁船が入江に浮かんでいるのもあれば、浜辺に引き上げられているのもある。左手には広い街道があり、人力車の往来が激しい。道傍には、低い灰色の家屋が建ち並ぶ。その大部分は茶屋や商店である。
「江戸はどこにあるか」と私が訪ねている時、汽車は終点の新橋駅に入って止まると、200人の日本人乗客を吐き出した。 合わせて400の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった。この人達は下駄を履いているから3インチ背丈が伸びるのだが、それでも5フィート7インチに達する男性や、5フィート2インチに達する女性は少なかった。しかし、和服を着ているので、ずっと大きくみえる。 和服はまた、彼等の容姿の欠点を隠している。痩せて、黄色く、それでいて楽しそうな顔付きである。色彩に乏しく、くっきり目立たせる点もない。女性はとても小柄で、よちよち歩いている。女性の髪は、すべて額のところから後ろに梳いて、束髪の髷を作っている。男達は、前髪を剃り、後ろ髪を束ねて奇妙な髷を作り、前方の剃った跡の上に引き寄せて(ちょん髷)いるほかは、3インチ程伸びた粗い髪が、頑固にも左右に分けもせずモジャモジャ髪になっている。

日本の鉄道開業は、新橋 - 横浜間が明治5年(1872)9月12日(天保暦、翌年から採用されたグレゴリオ暦では10月14日)に正式開業を迎えました。 政府内部では兵部省が「もし横浜から鉄道を利用して外国軍隊が東京に侵入したら防ぐすべがない」と鉄道建設に反対し測量を妨害したので、やむなく路線変更をして、御殿山を切り崩して海岸を埋め立て、海中に鉄道の土手を築いてやっと完成の運びになった。 民部車輌はすべてイギリスから輸入され、蒸気機関車10両はすべて車軸配置のタンク機関車でした。客車はすべて2軸車で、上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両、緩急車8両が輸入されたが、開業前に中等車26両は定員52人の下等車に改造された。当時の客車は台車や台枠は鉄製だが壁や屋根を含む本体は木造であり、この改造は練達の日本人大工の手によって実施された。鉄道員には士族が多かったため、乗客への態度は横柄なものであったといわれる。機関車を運転する機関士は外国人で、また運行ダイヤ作成もイギリス人に一任されていました。 当時の庶民はこの見世物を弁当持ちで見物にいった。なかには横浜までの片道切符だけで陸蒸気(おかじょうき)に乗って行き、帰りは一泊どまりの徒歩で帰ってきた者も居たそうです。
(「日本奥地紀行:イサベラ・バード」「Wikipedia」「東京時代」より)。(写真は当時の列車です)。

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