2007年1月 5日 (金)

天保飢饉

江戸時代も末期に近く天下騒然として幕藩体制の危機が叫ばれ始めた天保四年(1833)から天保十年(1839)までの間に全国的な規模で大飢饉が起こった。気候不順は天保元年から始まっていたが、天保四年には東北の風水害を始めとして、陸奥に寒冷、出羽には大洪水をもたらし、関東は大風雨から凶作となって、翌年にかけて米の値上がりが酷く民心の不安は極度に高まった。 大飢饉の頂点とも言うべき天保七年(1836)の東北地方では五割の減収が普通で、津軽藩は平均九割の大減収となり、翌八年には領内の餓死者四万五千余人と報告されている。全国の田畑は荒れ果て、農村からの流出や行き倒れが止まなかった。 飢饉が本格化した天保四年から打ちこわしは各地に広がっていたが、都市の食糧事情が最悪の状態となった天保七年には全国的規模をとるに至った。百姓一揆も天明を凌ぐものがあった。江戸では打ち壊しこそ無かったが、その悲惨さは天明の大飢饉にも劣らない酷さであった。
江戸後期の陽明学者で、もと大阪東町奉行の与力だった「大塩平八郎」は、餓死する人々の有様を黙って見ている事ができなかった。 大塩平八郎は大阪町奉行に米蔵を開いて窮民を救うよう頼んだが聞き入れられなかった。救済費として、三井、鴻池らの豪商に六万両の借金を申し入れたが、これも断られた。そこで大塩は、自らの蔵書五万冊を売却して窮民一万軒に金一朱ずつを配ったのです。 
大塩平八郎は、天保八年二月、同志二十人余と相談して挙兵三百人を集めて、町奉行所や豪商の住む船場等の襲撃を実行に移したが、大阪城の鎮圧軍にわずか半日で鎮定されてしまった。しかし、大阪城代以下諸役人の狼狽振りは眼に余るものがあったと言います。 これに刺激された越後柏崎の国学者の生田万らは陣屋を襲撃し、攝津の能勢でも山田大助らが徳政の要求と暴動を起こし、備後尾道で騒乱が起こり、同じく備後の三原における暴動などが頻発した。
天保の大飢饉の餓死者は寺院の過去帳などから計算して、岩手県で122,284人以上と推定されるが、天保の大飢饉の時は日本の人口が293,775人減少したと言われているので、流行病死を含む餓死者の数は、全国で二十万から三十万人に達したと思われる。
(飢饉日本史)。(大塩の乱資料館↓)

http://homepage3.nifty.com/oshio-revolt-museum/

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2005年5月 5日 (木)

水戸街道・松戸宿

mastudo 松戸宿は江戸から水戸までの29里31町20宿のうち千住、新宿(にいじゆく)につぐ3番目の宿場です。 武蔵国金町村から下総国松戸へは、渡し舟で江戸川を渡り「金町松戸関所」で通行人検めを受けなけれはならない。旧関所跡には「手形改めの石」が有ったと聞くが今は無い。 享保10年3月、11年3月八代将軍吉宗は、小金牧での鹿狩りのため江戸川に舟橋を架けて渡った、その模様を描いた錦絵が近くのせんべい屋に残っていると聞いているが今は店が無い。 徳川吉宗は小金牧(現・五香松飛台)で狩りを行い、鹿826頭、猪5頭、狼1頭を捕らえたと言います。 旧水戸街道筋には江戸時代創業という老舗が何軒か営業を続けていますが古い構えを残している店は数件になってしまいました。 宿場の北江戸川沿いには「平潟遊廓」がありました、松戸宿に宿が13軒の時に平潟遊廓には33軒もの飯盛旅籠屋があったと言いますからその繁盛振りがうかがえます。 明治17年徳川昭武が松戸に邸宅(戸定邸)を建てて母親と移り住み、徳川慶喜も度々訪れては二人で松戸を撮影した写真が1200枚残されていると聞いています。(写真は明治の水戸街道です)

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2005年5月 3日 (火)

ブログにんはお

流行に乗り遅れまいとブログを開けてはみましたが さて、何を書いたら好いものか。とりあえず江戸・東京に拘ってみようかと考えてはいますが???。

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