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<title>八つぁん</title>
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<title>江戸文明</title>
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<description>消え去ったと思われていた江戸文明が今注目されています。それは歌舞伎・三味線などの...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;消え去ったと思われていた江戸文明が今注目されています。それは歌舞伎・三味線などの伝統文化や芸能にとどまらない。生活時間、人間関係、労働と遊び、自然との関わりなど、江戸への関心の深まりは、たんなる懐古趣味ではないのです。江戸後期に達成された成熟社会の姿を、無意識のうちに、二十一世紀の社会に重ね合わせて観ようとしているのではないでしょうか。　日本列島に限定された生活空間のなかで、量的な成長が困難になった時代、人々はどのように日々を過ごし、どのような一生を送ったのか。　現代とは比べることが出来ないほどの短命な人生しか享受できない江戸時代でした、また量も内容も貧弱な物質文化であったにもかかわらず、その生活文化は二十一世紀の世界が求める「持続可能な開発」を支えるに相応しいものであったのです。二十世紀には、江戸後期に達成された生活文化は、否定され、破壊されました。それが今、再び求められているのです。　現代の我々にとって、江戸後半の停滞の時代は、一つの鑑となる時代です。物質とエネルギーの輸入が、取るに足りないほどの規模でしかなかった江戸社会で、人口はどのように変化したのか、生活はどうだったのか、家族や人間関係はどうだっのか。　二十一世紀の日本は、人口減少の時代となった。寿命は江戸時代の二倍を超えた。現代にふさわしい、新しい生活文化の伝統を形成しなければならない局面を迎えているのです。眼を世界に転じれば、地球規模に拡大した工業化文明は、六十億人を超える人口を抱えて、江戸時代中期の日本のように資源と環境の制約に直面しているのです。江戸時代の文明と人々の行動を知る事で、困難な時代を乗り越える知恵を得ることが出来るかも知れない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;戦国時代の長い戦いを収拾して打ち立てられた徳川政権は、武士を頂点とする身分制度、中央政権への各大名の絶対的忠誠を要求する政治制度、厳しく管理された対外接触や外国貿易のもとで、二世紀半の政治安定と経済社会の発展を実現しました。しかし、十九世紀半ばになると、優越した技術力と経済力を誇る欧米列強の到来により、内的発展は突然打ち破られたのです。　嘉永六年(１８５３)ペリー率いるアメリカ艦隊が、武力を背景に開国をせまって江戸湾に現れました。それ以来、日本の国家目標は、圧倒的な欧米圧力に対峙しながら、いかにして政治的独立を守り、日本社会を西欧化・近代化するかという、外向的な課題へと変容し、日本人に挙国一致の意識を芽生えさせていったのです。 植民地主義が吹き荒れていた十九世紀という過酷な時代に、非欧米諸国のなかで、なぜ日本だけが列強の圧力に屈することなく、十九世紀半ばから二十世紀はじめにかけての僅か半世紀の間に、後進農業国から欧米列強に肩を並べるまでに駆け上がることが出来たのか、これは核心的な問いかけであり、途上国にとっては現代的な意義をはらむ切実な問いかけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;明治政府指導者たちの近代化政策に大きな影響を与えたのが、岩倉使節団の西欧体験です。　欧米各地で先進地域の力を目の当たりにして、日本との落差の大きさをを実感し、日本の近代化の前途に暗澹たる思いを抱きました。 大久保利通はドイツの宰相ビスマルクから、ドイツや日本のような国が独立を維持するためには軍事・産業面を充実させ国力増進を図るべきだと学んだ。帰国後、大久保は国力増進の手段として、官僚制度を充実し、官僚による近代化という路線を日本に導入するきっかけとなりました。日本社会を西欧化・近代化するために、国民は西欧文明を貪欲に吸収していったのです。&lt;br /&gt;
「鉄道馬車・ 明治十五年」。「郵便制度・ 明治四年」。「グレゴリオ暦(太陽暦)・明治五年実施」。「ガス灯・明治七年暮れ、京橋、銀座通りから金杉橋の間に灯った」。「人力車・明治四年東京府下に四万台」。「電信・明治二年東京ー横浜架設」。「洋風建築・築地ホテル、銀座煉瓦街（ハイカラなミニ巴里風に造られた煉瓦街も、湿気の多い日本の気候に合わず空き家が多かった）」。「湯屋の改良・明治三年男女両浴槽の完全分離を命じた。明治十二年混浴禁止の規則制定」。「留学生の派遣・明治四年、津田梅子九歳外四名アメリカ留学」。「洋服・日本婦人の洋服姿は全くお話しにならない(ベルツ日記)と言われ様とも、鹿鳴館では和服姿を禁止した」。「医療・明治九年天然痘予防規則を定めて、種痘の強制実施に踏み切った。(明治二十四年から七年間の平均寿命・男４２．８歳、女４４．３歳)」。蒸気船。明治四年断髪令。 廃刀令。肉食。牛乳の飲用。学制の施行。新聞・出版等々。&lt;br /&gt;
【開化都々逸】＊若い人には解りにくいかも知れませんが？&lt;br /&gt;
ざん切り頭を叩いてみれば　文明開化の音がする&lt;br /&gt;
文明開化で規則はかわる　かわらないのは恋の道&lt;br /&gt;
なまじ開化をした人よりも　律儀で旧弊な人がまし&lt;br /&gt;
芸者渡世と人力車夫は　乗せてひくので札になる&lt;br /&gt;
忍ぶ恋路にゃ開化は邪魔よ　ランプへ羽織も掛けられぬ&lt;br /&gt;
わたしゃ蝋燭心から燃える　主はランプで口ばかり&lt;br /&gt;
闇を幸い忍んでみれば　瓦斯やランプで気がもめる&lt;br /&gt;
文明開化を知らない奴に　新聞煎じて飲ませたい&lt;br /&gt;
安い時計と浮気な息子　くるうたびたび金が要る&lt;br /&gt;
主と私は時計の針よ　合ったと思えばまた離れ&lt;br /&gt;
二人乗り合う馬車さえうれし　馬も並んで共稼ぎ&lt;br /&gt;
洗い立てするシャボンにまさる　思いを包んでみがく糠&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;近代日本が古い日本の制度や文物の清算の上に建設されたことは常識ですが、その事実を鋭く自覚していたのは日本に居た異邦人達です。　異邦人が予感し、目撃し証言することになった古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらず、ひとつの個性を持った文明の滅亡であったのです。それは「江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて存続した古い日本の生活様式」であった。住民の陽気な性格と礼節、欧米とは異なる身体・性に関わる習俗、女性・子供の社会における位相、衣食住における簡素であるが豊かな暮らし、自然と渾然となった緑豊かな景観と環境、信仰と祭りなど、異邦人の眼に映った日本は「よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明」であり、しかもそれが高度な文明であったことです。&lt;br /&gt;
日本アルプスを紹介したウエストンは「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かな事だろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい」と書いてます。&lt;br /&gt;
英国の商人クロウは木曾山中の須原村で忘れられぬ光景を見た「炎天下の労働を終わり、子供ずれで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真ん中を澄んだ小川が音を立てて流れ、しつらえられた洗い場へ娘達が「あとからあとから木の桶を持って走って行く。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。子供達は自分と同じぐらいの大きさの子を背負った女の子も含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づき合いの良さと幸せな様子」を見てクロウは感動した、明治十四年のことです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大正初めの東京を、日和下駄に蝙蝠傘のいでたちで、ただひたすら江戸の香を求めて散策した永井荷風は、東京の変わりゆく姿を肌身に感じて、懐疑的でした。実に根底より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙と言わねばならぬ。この暴挙あるがために初めて日本は二十世紀の強国になったと言うならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。&lt;br /&gt;
江戸の情緒が下町からなくなったのは、関東大震災の大打撃を受けたことによる。永井荷風は「江戸の東京となりてより大地震の今年までおよそ五十年を経たり。五十余年が間にわが国人の西洋のまねして造りたる東京の市街は唯の一夜にして灰になりぬ」。　震災後は、物質文明の発展・尖端的文化の登場・機械文明が生活を変えて、モダニズム(近代主義)が大衆の心をとらえ、モガ・モボ時代を現出することになりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ハリスの通訳として来日したヒュースケンは、安政四年十月二十一日の日記で「この帝国の誇り高い統治者も己の無力と西洋諸国民の力を認めはじめており、今日まで、あらゆる大国の縁組の申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して、世界の国々の仲間入りをしょうとしているのだ。しかしながら、いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(「文明としての江戸システム」「逝きし世の面影」「明治維新」「日和下駄」「江戸ッ子の生活」「ヒュースケン日本日記」より)。&lt;br /&gt;
「八つぁん」(７年６月もったいない。９年７月西欧化。９年１０月ヒュースケン。１０年５月向三軒両隣。１１年２月無縁社会。１１年３月江戸の芥。１１年９月江戸の豊さ。１２年１月江戸の豊かさ)。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
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<title>江戸時代</title>
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<description>関ヶ原の戦いを制して、天正十八年(１５９０)関東に移封し、幕府を開いた家康は、武...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;関ヶ原の戦いを制して、天正十八年(１５９０)関東に移封し、幕府を開いた家康は、武家諸法度の制定など徹底的な政局安定策を取り、国中を幕藩体制へと編成し直していきました。しかし、寛永１４年（１６３７）、三代将軍家光の時に島原の乱が勃発。幕府は１２万の大軍を投入して一揆軍を鎮圧したものの、多大な犠牲を払うことになったのです。 島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦で、百姓一揆、浪人一揆、宗教一揆が複雑に絡み合った内乱だったのです。島原の乱は、キリスト教と一揆が結びついたことにより、その鎮圧が困難を極めた為、キリスト教の危険性が強く認識されたのです。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になります。多くの血を流したこの事件を契機に、幕府は武力による統治を改め、法による統治へと転換を図っていきました。島原の乱を契機に、四代将軍家綱を経て五代将軍綱吉に至って文治政治を確立し、安定社会をもたらした江戸時代の原点となったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;戦乱が終わり、平和が招来されたことにより、武士が軍事活動から行政活動に転じ、広域的な新田開発が各地で進み、米が増産され、人口も急増するなど、経済は爆発的に発展し、高度経済成長を続けました。しかし、この繁栄に終わりを告げる出来事が起こったのです。宝永四年(１７０７）十月二十八日、元禄関東地震から四年目に起きた「宝永地震」は、経済成長を続けていた元禄期に、東海・東南海・南海地震が連動した巨大地震が襲ったのです。地震の被害は、死者二万人以上、倒壊家屋六万戸、津波による流失家屋二万戸に達しました。その恐怖もまだ去らない十二月十六日には、富士山の南東斜面から噴火が始まったのです。「江戸から見ると西南の方に黒雲が沸き立ち、稲妻しきりに光り、地鳴りがして地が震った。雪のように灰が降って、草木は真っ白になった」。愛媛県の道後温泉の湯は１４５日間も出なくなった。　讃岐では、屋島の東に並ぶ五剣山の東端の一峰が大音響とともに崩れ落ちて四つの峰になってしまった。太平洋沿岸にあった集落は大津波に流されて全滅しました。これを機に高度経済成長は終わりを告げ、停滞を余儀なくされて、社会は一転して「量的な拡大から質的な充実を求める社会」へ転換を図っていくのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;巨大地震を機に、低成長に見合った社会構造への転換を成し遂げた江戸中期でしたが、天明二年(１７８２)から続いた飢饉は、天明三年(１７８３)三月には岩木山が、七月には信州の浅間山が大噴火し、関東一帯に降灰をもたらし、江戸は「天暗く夜の如」き様子だったと言います。その灰害による大不作もあって日本史上でも空前の大飢饉となったのです。火山灰が農作物に大きな被害をもたらすと共に、火山の噴火は、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じ、江戸四大飢饉のなかでも最も被害の大きい天明飢饉の一因となったのです。食べるものを失った農民は悲惨を極め、餓死者が続出。この後９年に及んだ飢饉により、全国で百万人以上が死亡したと言われます。　天明七年(１７８７)には全国的な規模の大飢饉えと拡大していき、農民一揆や逃散が頻発したため、年貢も激減して幕藩体制に大打撃を与えました。　幕府は民の命を救う政治への転換を迫られました。「徳川時代の根底に流れる民を考える政治。その大きな起点となったのが天明の飢饉であり、幕府と諸藩が連動して政治改革が進められ、民政が重んじられていった」。天明の大飢饉を契機に、徳川幕府は政治改革を進め、民のための「仁政」、福祉に力を注いでいくのです。&lt;br /&gt;
松平定信の回顧録「宇下人言」は、天明飢饉について触れています。「こぞ(天明四年)仙台にて餓死したる人、四十万にみてり、津軽も二三十万人死せり。その余右のごとし。予が領国は死せるものなしといへり。されど餓死せざれども、食物あしくて死せるものはありけんかと思えば、いまも物くるし」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;幕藩体制の根底を覆しかねない未曽有の飢饉を乗り越え、幕藩体制後期の安定につなげていきました。「素朴で絵のように美しい国」「専制支配が行われている日本において、個人は多くの権利をもっていた」。明治維新前後に来日した欧米人が、日本の国を絶賛していることが数々の滞在記に残されています。 ヒュースケンは「この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、どこにも悲惨なものを見出すことの出来なかった私、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼等の重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない」と日記に書いてます。　欧米人が見た日本の体制は、幕藩権力は国政レベルの領域では強権を振るいましたが、民衆の日常生活の領域には、可能な限り立ち入ることを避けたからです。それは裏返せば民衆の共同体に自治の領域が存在したと言う事で、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力と言えどもみだりに侵害することは許されない性質を保有していたのです。つまり欧米人たちは江戸期の日本に、思いもかけぬ平等な社会と自立的な人々を見出したのです。  江戸期の政治体制ほど「専制」の概念に遠いものはなかったのです。　欧米人が見たのは、武装した支配者と非武装の被支配者とに区分されながら、その実、支配の形態はきわめて穏和で、被支配者の生活領域が彼等の自由に委ねられいる社会であって、身分的差異は画然としていても、それが不満の源泉となることのないような、親和感に貫かれた文明だったのです。&lt;br /&gt;
徳川家康は政権の礎を築くにあたり、特に力を入れたのが本の出版だそうです。家康公は「世の中が乱れるのは皆が本を読まないからだ、本を発行することは仁なる政のもとである」との考えでした。 元禄のころ出版点数は年間四、五千点にのぼっていたと言われます。　これらの本は、ヨーロッパでは僧侶・貴族のためで、読み手は富裕な階級だけですが、日本では大衆に向けて広まっていったのです。　&lt;br /&gt;
徳川の世になってから２００年後、全国で町人文化が華開いた文化文政期が江戸の姿を造りました。文化・文政期（１８０４～１８２９）を中心とする江戸時代後期に発展した町人文化は、芸能・文学・美術・工芸・演劇と多彩に展開しました。 これらは江戸で発生し、商人などの全国的交流や、参勤交代などによって各地に伝えられていったのです。江戸時代前期の文化は上方に押されっぱなしでしたが、やがて文化の重心は江戸に移っていくのです。 これらの文化の発展には江戸っ子の知的向上が力になりました。享保七年(１７２２)には、すでに八百軒の寺小屋があったと言われます。六七歳から毎日、読み・書き・算盤から行儀作法まで指導を受けていたのです。文化五年(１８０８)江戸には６５６軒の貸本屋があり、同十年ごろ大阪には約３００軒あったと言われています。&lt;br /&gt;
ところが、その爛熟期の最中に、対外戦争の危機があったのです。　十九世紀初頭、蝦夷地でロシアと一触即発の事態となった露寇事件です。文化三年(１８０６)九月、ロシアの遣日全権大使レザノフが部下に命じて樺太を、翌四年四月二十四日に択捉島を襲撃させたのです。徳川幕府はただちに東北諸藩に出兵を命令。軍事衝突の緊張はピークに達しました。しかし結局、紛争を回避しようとする松前奉行の上申を幕府が聞き入れ、衝突は回避へと向かいました。徳川体制を覆しかねない危機を乗り越えたことで、民の生命・財産を守るという価値観を再認識し、江戸時代後期の町人文化の醸成につながっていくのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私は、日本史の中でも江戸時代に興味があって、以前から写真集や本を読んできました。江戸時代の魅力は、何と言っても民衆が歴史に登場したことで、庶民の生きざまが生々しく資料に残されています。 私はそれをブログで興味本位に書いてきましたので、脈絡がなく読みにくいと言われましたが、どうやらそれも終る時が来たのかなと感じています。　私は東京で生まれて、東京で生活してきましたので、江戸の現場にいたのですから、こんな好状件はありません。以前はカメラを提げて都内を歩き回るのが唯一の楽しみでしたが、今となってはそれも叶わなくなりました。　江戸を語る時隅田川を抜きにしては語れません。その隅田川を遡りながら江戸を書いたら、さぞ面白いだろうと考えます。佃島・小名木川・中州・両国橋・神田川・吾妻橋・浅草等々、思いは尽きませんが、今となっては思いだけで、実現は叶いません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(「さかのぼり日本史」「日本の歴史」「逝きし世の面影」「氷川清話」「文明としての江戸システム」「Wikipedia」「未来のための江戸学」より)。&lt;br /&gt;
「八つぁん」(６年１２月天明飢饉。７年１２月宝永の噴火。１０年１１月文化文政。１１年９月徳川の政治。１１年１０露寇事件。１１年１１月江戸の大地震。１２年１月江戸の豊さ)。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
<dc:date>2012-04-27T09:56:36+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/04/post-f60e.html">
<title>大奥と寺院</title>
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<description>大奥の女中達と言えば、行動の自由が制限されていたと言うイメージが強いです。ところ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;大奥の女中達と言えば、行動の自由が制限されていたと言うイメージが強いです。ところが、お寺詣りという名目なら城外に出られたので、奥女中達は様々な理由をつけてはお寺詣りをしていました。　大奥の女中達が参詣すれば、諸大名も江戸屋敷の女性達もこぞって参詣する事になるので、寺院の側も奥女中の参詣は、寺の経営上からも非常に重要だったのです。こうして、大奥と寺院の関係はますます深まっていきました。東京には、大奥が関係して建てられた寺院が数多くあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;文京区小石川三丁目にある「伝通院」は、本来は無量山寿経寺ですが、徳川家康の生母於大の方の法名「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」から通称伝通院と呼ばれています。慶長七年（１６０２）六月於大の方は京都に上り、名所旧跡を遊覧中、病を発し、八月京都伏見城で逝去しました、七十八歳だった。家康は知恩院で仮葬を営んだ後、母の遺骸を江戸に移し、慶長八年（１６０３）九月、増上寺に安置し、その後、伝通院に埋葬したのです。伝通院は、芝の増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提寺となり、上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称されました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;春日局の菩提寺「麟祥院」は、文京区湯島四丁目にあります。春日局は名を「福」と言います。慶長九年(１６０４)第二代将軍秀忠の正室「お江」が竹千代(家光)を出産したので乳母を募ることになった。福は京都所司代に申し出て、乳母として採用されました。福は我が身を捨てて竹千代を育てたのです。その後、生まれた竹千代の弟国松(忠長)を、秀忠とお江は目を掛けていたので、次期将軍の座を巡って対立が深まった。福は家康に直訴して竹千代を後継者とすることを宣言させたのです。　竹千代は家光と名乗り、二十歳のときに三代将軍に就任しました。福は江戸城大奥の取締役となり、朝廷から「春日局」の名を賜わりました。大奥は本来表と奥が一体だったのですが、元和四年（１６１８）春日局が大奥法度を定めて男子禁制にしたのです。&lt;br /&gt;
春日局の菩提寺　麟祥院本堂の左右にある春日局の肖像画は、白絹の一重に緋の袴をつけ、髪はお下げに結び、左の手に数珠を持って参内する姿を、局の還暦祝いに、将軍家光の面前で狩野探幽に画かせたものと言われています。家光は、この肖像画が出来たとき、緞子の布で表装させ、局の死後はこれを身近において礼拝していたと言われます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;三代将軍家光の側室お玉(桂昌院)は、寛永四年（１６２７）京都の大徳寺付近の八百屋仁左衛門の娘として産まれました。寛永十六年（１６３９）に御小姓として三代将軍家光の側室お万の方に仕えました。その際に春日局の部屋子(御殿女中に召し使われた少女)でしたが、家光に見初められて側室となり、正保三年（１６４６）五代将軍となる綱吉を産みました。男子を授かったのは、群馬県護国寺の住職亮賢の祈祷によると、桂昌院は亮賢に深く帰依するようになったのです。　慶安四年（１６５１）に家光が死ぬと桂昌院は大奥を離れ、筑波山知足院に入りました。　延宝八年(１６８０)第四代将軍家綱が死去した後、綱吉が将軍職に就くと桂昌院は江戸城三の丸へ入ります、桂昌院は幕府を動かして、亮賢を開山とする「護国寺(文京区大塚五丁目)」を創建しました。護国寺は綱吉と桂昌院の強力なバックアップを受けて巨大化していったのです。　 &lt;br /&gt;
桂昌院は、貞享元年（１６８４）に従三位を、元禄十五年（１７０２）には女性最高位の従一位の官位となりました。&lt;br /&gt;
桂昌院は、宝永二年（１７０５）に七十九歳で没しています。(八百屋の娘・お玉が将軍の側室となって、桂昌院まで登りつめたことが「玉の輿」の語源となったのだそうです)。&lt;br /&gt;
桂昌院が埋葬された増上寺で、徳川将軍家の墓地が改葬された際に、遺骨の調査を担当した鈴木尚氏が中心となって編纂した『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば、桂昌院は、血液型はＡ型で、四肢骨から推定した身長は１４６．８Ｃｍであった。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「大江戸お寺繁盛記」「日本史を変えた夫の戦い妻の戦い」「江戸から東京へ」「Wikipedia」より)。&lt;br /&gt;
「八つぁん」(７年１０月江戸城大奥。７年１２月犬公方。８年１月大奥と日蓮宗。８年２月伝通院。８年５月女の園大奥。８年１２月文京区春日。９年８月徳川斉昭。１０年３月延命院事件。１１年４月江戸の寺院)。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
<dc:date>2012-04-25T11:24:40+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/04/post-e11a.html">
<title>浅草寺と吉原</title>
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<description>文久三年(１８６３)日本に派遣された、スイス使節団の団長アンベールは、浅草寺・新...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/15/800pxazuma_bashi_old.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;800pxazuma_bashi_old&quot; title=&quot;800pxazuma_bashi_old&quot; src=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/images/2012/04/15/800pxazuma_bashi_old.jpg&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;117&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
文久三年(１８６３)日本に派遣された、スイス使節団の団長アンベールは、浅草寺・新吉原も訪れています。&lt;br /&gt;
浅草・今戸地区には、百以上の礼拝堂があるが、その中で最も名高いのは、観音様を祀ってある礼拝堂である。この礼拝堂はあまりにも有名なので、付近にある寺院はすっかり影が薄くなっている。何時も植木や花の市場が立っている広場の北隅に、巨大な提灯を飾った大門(雷門)がそびえている。この大門の左右に、天国の番人である朱色で塗られた木製の巨漢が立っている。大門の背後に「金龍山浅草寺」と名付くる長くて広い通りがあって、数珠や蝋燭や香炉や仏壇などを売っている店が並んでいる。この通りの東端、蓮やその他の水草で覆われた池の辺りに寺院が聳えているし、美しい水草の花や葉の間に茶屋が点在している。通りの西端には松の木影に小さな礼拝堂が見える。第二の大門(宝蔵門)の辺りには、小さな店や奇術師の小屋などでぎっしり詰まっている。　観音を祭る本殿を取り巻く幾多の礼拝堂には、福の神の大黒、調和の神の弁天、戦いの神の八幡といった、あらゆる民族的な神々が祭られていて、五重の塔が他の宗教に対する仏教の優越性を表している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;浅草地区の一角に新吉原という別世界がある。晴着を着た七歳の女の子の手を取っている貧しい装の女は、どこへ行くのであろうか。彼女は、観音の祭壇の前に一文銭を置いて、子供と一緒に稲田を通り抜けて、東の新吉原の方へ向かっていく。丸一時間ほど歩いて行くと、彼女の前に、一郭を取り囲む石の壁が立っている。その中に入る事が出来るのは、北側の橋のある処しかない。そこには、広い屋根で覆われた高い門が内部への入口になっている。　酔漢がこの不幸な母親に嫌らしい冗談を投げかける。彼女は自分の立場上やむなくそれに答えるが、その声は震えていた。辺りのすべてが彼女にとっては恐怖なのである。子供を連れた母親は「岩亀楼」と書かれた建物に入って行く。娘を五十円で売ったのだが、詳しく言うと、十七年間の完全な奴隷生活と交換したわけである。子供を奴隷に売る原因は、多くの場合父親の身持ちが悪いか妻子を追いだしたためで、日本の婦人は、離婚によって何の補償も受けることが出来ない。離婚された女は、二度目の結婚をする機会がない。社会は冷たい目で彼女を見るので、彼女を引き取ってくれる親類がない場合には、乞食になる以外に生きる道は無くなる。　新吉原は、外国人にとって入る事は不可能であるが、日本政府は港の料亭に、新吉原の遊郭のあらゆる施設を持ち込んできて、土地の者にも外国人にも同じように利用する事が出来るようにしている。ここにも殆ど毎日、軍艦や商船の乗組員たちが詰めかけている。このような婦人の忌まわしい奴隷化は、大変に遺憾なことである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;安政五年(１８５８)三月、ハリス氏と私は浅草寺へ行った。たいへんな人出だった。寺の入口には二つの像があり、一つは樽の神、一つは酒の神であった。観音開きになったこの扉をくぐり抜けて広い通りに出ると、両側に店が並んでいた。それは、要するに市のようなところであった。十分ばかり歩くとまた別の門があり、それをくぐるとようやく寺の本堂があった。三十段ばかりの階段を上って中に入った。霊験があらたかであると言うので、毎日大勢の人々が参詣している。□□の足指と仏像があるが、信者達が何回となく触るので鼻も眼も磨滅して、わずかに□□の輪郭だけとなり、唇もかすかな痕をとどめているたけである。寺は大変立派ではあるが、しかし汚れている。たくさんの偶像があり、灯篭があり、奇妙な形のものが天井から吊るされたり、床に置かれたりしている。二十人ばかりの婦人を描いた一枚の絵は、吉原・売笑窟の美人を描いたものである。・・・別の小部屋には大きな船□□があり、それには沢山の等身大の人形が乗せてあったが、本を読む人、煙管を吹かす人、お化粧に熱中している婦人たち、人夫、商人、書きものをする人、いずれもみなよく出来ていた。最後の部屋は裸人形で、たいへんな数であったが、腰に布を巻きつけた裸婦のコレクションでは最大のものだ。＊(□□は難読部分)。(「ヒュースケン日本日記」より)&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;明治十一年(１８７８)六月、バードは浅草に出かけています。「私は人力車に乗り、お仕着せを着た三人の車夫がそれを引いて、公使館から浅草までの三マイル、雑踏する町の通りを吾妻橋に向かって進んだ。吾妻橋は東京の数少ない石橋の一つで、東京の東西を結ぶ。東の東京は興味のない地域で、多くの掘割があり、倉庫や材木置場や下屋敷が多い。浅草のこの通りは、多くの乗合馬車の終点であるから、二十台も貧弱な幌馬車が、さらに貧弱な馬に引かせて、乗客を待って道路の真ん中に勢揃いしている。　この浅草においてこそ東京の本当の生活が見られる、というのは、多くの人の参詣する寺院の近くには、いつも数多くの遊び場がある。食堂や茶屋、芝居小屋が立ち並び、踊ったり歌ったりする芸妓のいる遊里もある。　大通りから寺の入口まで、歩行者専用の石を敷いた参道がある。参道の両側には店が立ち並び、美しく豊富に品物を並べてある。おもちゃ屋、煙草道具屋、髪を飾る簪を売る店等が圧倒的に多い。・・・寺院の境内は、まことに特異な光景である。寺院の裏に矢場が沢山ある。そこの娘達は、いつものような淑やかさはなく、微笑したり、にやにやしたりして、綺麗な茶碗に淡黄色のお茶を入れ、味のないお菓子を漆の盆に載せてもってくる。　内の至る所に茶店があり、例の炭火で銅の釜の湯をわかし、奇妙な作りの鉄瓶や小さな茶碗で、香りのよいお茶を出し、愛嬌のある優しい少女が、休んでお茶を飲みませんかと手招く。どの店も美しい紙提灯の列で飾られている。畳を敷いた休息所や、お皿に米、えんどう豆を盛って売っている店もある。これは神々に供えたり、鳩や馬に与えるためのものである。 本堂の外にある仁王像やその他の神々は紙つぶてで汚れている。参詣人は願い事を紙に書くが、その紙片を噛んで丸めて、神様に向かって吐きつけるのである。もし狙いが網格子を通過すれば吉であり、もし網にひっかかれば願い事はたぶん聞き届けられなかったことになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(「絵で見る幕末日本」アンベール。「日本奥地紀行」バード。「Wikipedia」「ヒュースケン日本日記」より)。&lt;br /&gt;
「吾妻橋」：江戸時代に隅田川に架橋された五つの橋のうち最後の橋であり、幾度かの架け替えが行われました。明治九年(１８７６）に木橋として最後の架け替えが行われた際に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。明治十八年(１８８５)の大洪水で初めて流失してしまった。明治二十年(１８８７)に隅田川最初の鉄橋として再架橋されたのです。&lt;br /&gt;
＊文中の「吾妻橋は東京の数少ない石橋の一つで」とありますが、明治初期に石造りされた日本橋との感違いだと思います。(写真は明治二十年の吾妻橋です)。&lt;br /&gt;
「八つぁん」(７年１１月浅草観音、８年１月吉原遊廓、８年７月浅草寺、８年９月不義密通、９年６月楊枝見世、１０&lt;br /&gt;
年６月人身売買、１１年４月江戸の女房)。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
<dc:date>2012-04-15T14:29:13+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/04/post-d392.html">
<title>浄土・日蓮宗</title>
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<description>日暮里駅西側台地に天王寺という天台宗の寺院があります。かっては日蓮宗本門寺派の寺...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/14/photo.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;Photo&quot; title=&quot;Photo&quot; src=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/images/2012/04/14/photo.jpg&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;150&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
日暮里駅西側台地に天王寺という天台宗の寺院があります。かっては日蓮宗本門寺派の寺院で感応寺と言いました。感応寺は、日蓮宗不受不施派に属していたので、幕府により天台宗への改宗(元禄十一年・１６９８)を命じられて、寛永寺の末寺に組み込まれてしまったのです。天保四年(１８３３)、中山法華経寺の子院知泉院の日啓や、日啓の娘で、第十一代将軍家斉の寵愛を受けていた、大奥の女中お美代の方(八つぁん７年１０月江戸城大奥)などが、感応寺を再び日蓮宗に改宗する運動を起こしました。池上本門寺は感応寺の帰宗願を寺社奉行に提出しました。しかし、感応寺の帰宗願は却下されて、感応寺を天王寺と改称させた上で、新に日蓮宗の感応寺を創建することで政治決着したのです。　感応寺は雑司ヶ谷の地に創建されましたが、お美代の方を始めとする大奥の後ろ盾で誕生した寺ですから、頻繁に大奥の女中達が参詣しに来たため、もろもろの噂が囁かれました「奥向きよりも、御代参と称して、宮女大勢つねに参詣するゆえ、住職を初め、伴僧等申し合わせ、各自に競争して不義を行ひ、これに奸通し、後には増長して、女中互に申し合わせ、奥向よりして感応寺へ寄進の物也とて、代わる代わる長持の中へ入れて錠をおろし、寺へ担ぎ込みて、恣に姦淫を行ふやうに成りしゆへ、寺社奉行これをあやしみ尤めて、大目付へ沙汰して、ある時、その長持を検して、生人形の女をあらわしたりと言ふ。この時に携はりし宮女は、ことごとく罰せられし」(燈前一睡夢)。　&lt;br /&gt;
江戸近郊の雑司ヶ谷に創建された感応寺は、僅か三年余りで廃寺となりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;徳川家斉は五十年以上も将軍の座にありましたが、天保十二年(１８４１)に死去しました。　家斉が隠居した後に住んでいた江戸城西丸御殿にも、奥女中が生活する大奥がありました。その西丸大奥にはお美代の方も住んでいたので、日蓮宗の信者が多かったのですが、他宗派からの改宗者も多数いたようです。　参勤交代で江戸屋敷を構えていた諸大名も同じで、江戸屋敷には正室を置くことを義務付けられていましたので、屋敷内には大勢の奥女中が住んでいました。他宗派に入信していた奥女中も日蓮宗に改宗していったのです。　徳川家の宗旨は浄土宗ですから、本丸大奥内には浄土宗の信者が多かったのは当然で、将軍の霊廟のある増上寺は、大奥への働きかけを活発化させました。その結果、浄土宗の本丸大奥と日蓮宗の西丸大奥との対立となったのです。「増上寺は将軍家の香華院なるに、斯日蓮宗の繁昌を見て、いかに黙すべき、窃かに本城将軍附の女中に手を入れて、其帰依を催かさせしより、彼浄土宗と日蓮宗の如く、本丸・西丸の女中等、平生窃かに軋轢せるより、我劣らずと念仏を唱へ出し、両城の大奥は、一時浄土宗・日蓮宗の競争といふ有様なりし」(徳川幕府時代史)。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;日本に修行に来ていたイギリスの僧侶は「日本の仏教は形ばかり大事にしていると思います。それと仏教の宗派ばかり見ていて、宗派を越えてあまり交流しないです。ですから、宗派を大事にしていて、その祖先を大事にして、お釈迦様はあまり見ないで、その宗派のいちばん上のほうだけ見てます。例えば道元さまとか、親鸞さまとかを見て、お釈迦さままではとても見てないと思います」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;※日蓮宗不受不施派：寛文五年(１６６５)、四代将軍家綱は「諸宗寺院法度」の掟を出して、全宗派の強力な支配へと移行しました。寺の格付けを行い、大本山の最高責任者に管理権限を与え、その最高責任者の任命には、幕府の承認が必要と定めて、幕府の統制が末端まで届くシステムを作り上げたのです。ところが、統制に従わない日蓮宗の不受不施派とキリシタンは禁教として厳しく取り締まりました。&lt;br /&gt;
(「がんばれ仏教」「大江戸お寺繁盛記」「お坊さんが隠すお寺の話」「Wikipedia」より)。&lt;br /&gt;
「八つぁん」(５年７月宗旨。６年１月笠森お仙。７年１０月江戸城大奥。８年１月大奥と日蓮宗。８年５月女の園大奥。９年２月増上寺。１０年３月延命院事件。１０年１１月徳川家斉)。(写真:天王寺)&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
<dc:date>2012-04-14T17:03:27+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/03/post-0324.html">
<title>世相の変還</title>
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<description>世の変還というものは、いろいろな原因から来るよ。鉄道が通じてから、地方の風俗が大...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/03/09/photo.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;Photo&quot; title=&quot;Photo&quot; src=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/images/2012/03/09/photo.jpg&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;254&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
世の変還というものは、いろいろな原因から来るよ。鉄道が通じてから、地方の風俗が大いに変わって、段々悪くなると言うが、それもさうだろうよ。　維新後旧幕の旗本が、静岡に引き移った時は、その数が一万五千人もあって、しかもみな家がないから、いずれもそこらあたりの民家の座敷を借りて、そこに仮住まいをして、藩庁から来る扶持米でもって、僅かに生活していたのだが、しかしながらいかに零落しても、流石は江戸の士だから、どことなく気品が高くって、婦人などもどんなあばた面でも、何となく上品なところがあって、田舎者とは非常な違いであった。そこで最初はその辺りの人も、土地の習慣で、茶を出すにも茶釜で煎じて、汚れた茶碗に汲み、下女などもひびだられけの手で差し出してたが、年を経るに従い、それが段々江戸人を見習うようになって、茶釜も急須に変わり、汚れた茶碗も立派な品になり、家の妻君が衣服などを着飾って茶を出すようになり、五年目には蒲焼屋までが出来た。世の変還というものは、まあこんなものさ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;武士的気風は、日を追って崩れてくる。これはもとより困った事には相違ないが、しかし、おれは今更のやうには驚かない。それは封建制度破れれば、こうなるということは、ちゃんと前から分かっていたのだ。今でもおれが非常に大金持ちであったら、四五年の内にはきっとこの風を挽回して見せる。それはほかでもない。全体封建制度の武士というものは、田を耕すことも要らねば、物を売買することも要らず、そんな事は百姓や町人にさせておいて、自分らはお上から禄を貰って、朝から晩まで遊んでいても、決して喰うことに困るなどという心配はないのだ。それゆえに厭でも応でも是非に書物でも読んで、忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかったのだ。それだから封建制度が破れて、武士の常禄というものがなくなれば、したがって武士気質も段々衰えるのは当たり前のことさ。その証拠には、今もし彼等に金を呉れてやって、昔のごとく気楽なことばかり言われるようにしてさえやれば、きっと武士道も挽回することが出来るに相違ない。(氷川清話・勝海舟より)。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「武士道とは死ぬ事と見付けたり」と言う言葉があります。武士は戦が無くては存在意義がありません。武士たる者は何時でも死ぬことを考えていなくてはならないと言うのです。武士にとって主人に召抱えられ、奉公に上がり、命じられた任務を果たすことが当然の役目で、その職を解かれることは武士にとっては死活問題だったので、江戸時代の武士は、自ら責任があると思えばいさぎよく切腹したのです。　誰かが腹を切れば、上位にある者の責任は不問とされたのです。　&lt;br /&gt;
最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎していたとき、警護を務めていた若い武士が上野広小路で無銭飲食をした。警備責任者の山岡鉄舟は「これははなはだ不都合なので腹を切れ」と命じた。若い侍はその指示に従ったのです。武士は主君の身を守るために存在したので、下の者が上の者の判断一つで簡単に腹を切らされたのです。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(八つぁん９年５月「徳川家臣団」。９年１０月「静岡県牧の原」「徳川・会津移封」。１０年８月「武士道」「武士の収入」「武士の面子」。１１年１２月「武士の家計」)。(写真:勝海舟)&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
<dc:date>2012-03-09T09:52:59+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/03/post-0855.html">
<title>日光入町村</title>
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<description>イサベラ・バードは「私はすでに日光に九日間も滞在しているのだから「結構」と言う言...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/03/07/photo.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;Photo&quot; title=&quot;Photo&quot; src=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/images/2012/03/07/photo.jpg&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;214&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
イサベラ・バードは「私はすでに日光に九日間も滞在しているのだから「結構」と言う言葉を使う資格があると思う」と書いてます。　日光入町村は、私にとっては日本の村の生活を要約しているのだが、約３００戸からなり、三つの道に沿って家が建てられている。日本人は早起きするが、これは不思議な事ではなく、晩は灯火が暗くて楽しみがないからである。ランプと言えば四角や円形の漆器のスタンドのことで、２フィート半の高さの四本の直立材に白い紙を枠に張ったものである。平らな鉄皿が、油をいっぱい入れてこの中に吊るされている。中心に重みをつけた灯心の芯がその中に置かれ、出ている先端に灯火をともす。　この哀れな器具は、行燈と呼ばれる。この惨めな「見える暗闇」のまわりに、家族一同が集まるのだ。子供達は遊戯や学校の勉強をするし、女達は縫物をする。というのは、日中は時間が短く家の中は暗いからである。もっと嘆かわしいものは、行燈と同じ高さの燭台である。上部に釘が出ており、木蝋製の小蝋燭の底の穴に挿しこんでいる。この蝋燭は、太い灯心が巻いた紙で出来ているので、絶えず芯を切らなければならず、しかも、暗くてチラチラする光をしばらく出してから、悪臭を残して&lt;br /&gt;
消えるのである。石油を燃やすランプは生産されているが、石油を運ぶ費用が大層掛かるのである。　&lt;br /&gt;
村には商店が溢れているが、たいていの品物は食物である。例えば、長さ１インチ半で串刺しの干し魚、米や小麦粉と小量の砂糖で作られた菓子類、餅と呼ばれる米粉を捏ねた丸い団子、塩水で煮た大根、豆から作った白いゼリー(豆腐)、草鞋・蓑・油紙・妻楊枝・煙管・その他竹や藁で作った細々した品物である。これらの品物が屋台にならべてあり、道に向かって開いている後ろの部屋では、家庭の仕事がすべて行われている。ふつう主婦が湯を沸かしたり、赤ん坊を背中の着物の中にくるんで縫物をしている姿が見られる。最近マッチ工場が建てられて、多くの店先ではマッチの長さに木を切っている男の姿が見られる。　女が機で織っている家もあれば、木綿を紡いでいる家もある。ふつう、三人か四人が一緒に仕事をしている。母、長男の妻、それに一人か二人の未婚の娘である。　&lt;br /&gt;
娘達は十六歳で結婚し、まもなく、これらの綺麗で薔薇色をした健康そうな女性が、痩せこけて空ろな顔をした中年の女になってしまうが、これは、歯を黒く染め、眉を剃ってしまうことが原因であろう。そういうことは、結婚してからすぐやるのではないが、最初の子が生まれると実行されるのである。　化粧している女は、畳の上の鏡台に仕付けてある丸い金属の鏡の前で染めていたり、あるいは腰まで着物を脱いで身体を洗っている。子供達が学校に行っている朝のうちは村も静かである。夕暮れになると大人達は帰ってくる。風呂に入って水をはねる音が聞こえてくる。　暗くなると、窓や雨戸が閉められ、神棚の前に灯火がともされ、夕食を食べる。　家を閉めてから、長い暖簾の間から見えるのは、一家団欒の中に囲まれて褌だけしか着けてない父親が、その醜いが優しい顔をおとなしそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から気物を落とした姿で、着物をつけていない二人の子供を両腕に抱えている。子供達はとてもおとなしく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子供に親切である。子供達は行燈のまわりで静かに遊戯をする。十時頃に、布団や枕が押入れから取り出されて、一家は一つの部屋に横になって眠る。　&lt;br /&gt;
私は子供達が遊んでいるのを何時間もジット見ていたが、彼等が怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪い事をしたりするのを見たことがない。しかし、彼等は子供というよりはむしろ小さな大人と言うべきであろう。彼等の服装は大人の服装と同じだから、彼等が大人くさく古風な感じを与えるのも、その服装によるところが大きい。しかし、少女の髪を結う型にはいろいろある。その髪型によって、結婚するまでの女子の年齢をかなり正確に推定することが出来る。男の子は十五歳になると、大人と同じように髪を伸ばすことができる。これらの少年達が、大きな頭に奇怪な方の髷を載せて、重々しい威厳を保つさまは、まことに面白い。この大半を剃った頭が、常に滑らかで清潔であれば好いのだが、見るも痛々しいのは、疥癬、しらくも頭、たむし、爛れ目、発疹など嫌な病気が蔓延していることである。村人達の３０％は、天然痘の酷い跡を残している。しかし六歳か七歳の小さい子供が軟らかい赤ん坊を背中に引きずって、赤ん坊はぐらぐらして今にも落っこちそうな姿を見るのは、いつも私には辛い。(「日本奥地紀行：イサベラ・バード」より)。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;英国人女性イサベラ・バードが通訳と二人で東北・北海道を旅し、日本人とともに暮し、日本の生活様式を見てきたのは、彼女が初めてだそうですが、華やかな江戸とは大きな隔たりがあります。バードは「私は見たままの真実を書いている。もし私の書いていることが東海道や中山道、琵琶湖や箱根などについて書く旅行者の記述と違っていても、どちらかが不正確と言うことにはならない。しかしこれが本当に私にとって新しい日本であり、それについてはどんな本も私に教えてくれなかった。農村こそは、日本政府が建設しようとしている新文明の主要な材料とせねばならぬものである」。と述べています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
<dc:date>2012-03-07T13:50:59+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/03/post-c291.html">
<title>東北紀行</title>
<link>http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/2012/03/post-c291.html</link>
<description>明治十一年(１８７８)六月から九月の三か月間、英国人女性イサベラ・バード(４７歳...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/03/03/200pxisabella_bird.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;200pxisabella_bird&quot; title=&quot;200pxisabella_bird&quot; src=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/images/2012/03/03/200pxisabella_bird.jpg&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;266&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
明治十一年(１８７８)六月から九月の三か月間、英国人女性イサベラ・バード(４７歳)は、１８歳の従者兼通訳を雇い、馬にゴム製の浴槽、旅行用寝台、折りたたみ椅子、空気枕等を積んで、東北・北海道の旅に出ました。&lt;br /&gt;
 昨日、英国代理領事が訪ねて来たが、彼は、私の日本奥地旅行の計画について「それは大変大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう」と語った。「日本旅行で大きな障害になるのは、蚤と乗る馬の貧弱なことだ」と他の人と同じ意見だった。バードは「日本は夢のように美しい国ではなかったが、日本に対する興味は私の期待を大きく上回るものだった」と述べてます。　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;日光から北上して福島県の山地に入った。山間の小村はみな貧しく不潔なたたずまいだった。「私は日光出発以来見てきた明白な貧しさ、真のきたなさと辛苦に対して、心の用意がまったく出来ていなかった」。しかし同時に「私達にとって、悲惨な種類の貧困とは通常、怠惰と酒浸りとに結びついている。しかし農民の間では、怠惰は見られないし、酒浸りは稀である。彼等の勤勉には限りがないし、安息日もなく、仕事が無い時に休日をとるだけだ、彼等の鋤による農作業はその地方を庭園のように変え、そこでは一本の雑草も見つからない。彼等はたいそう倹約家だし、あらゆるものを利用して役立たせる。土地にたっぷり施肥するし、作物の輪作も知っており、進歩した農業技術から学ぶとしても、それはほんの少しである」。この村々が貧しく見えるのは、人々が快適な暮らしと言うものを知らず、清潔と言うことに無関心だからだ、とバードは考えました。&lt;br /&gt;
だが福島と新潟の県境近くで見たある山村は、悲惨な貧を現わしていた。「休息できる程清潔な家はなかったので、私は石の上に腰かけて一時間以上このあたりの人々のことを考えた。子供達は白くも頭や疥癬で、眼は爛れて赤く腫れていた。女はみんな赤子を背負い、小さな子供もよろめきながら皆な赤子を背負っていた。　女達は木綿のズボンしか身につけていなかった」これが私の聞いていた日本なのだろうかと思った。　ところが米沢平野に入るや、うっとりするような地域を見出した。「南に繁栄する米沢の町、北には湯治客で賑わう赤湯温泉をひかえて、まったくエデンの園である。米・綿・トウモロコシ・煙草・麻・藍・豆類・茄子・胡桃・柿・杏・柘榴が豊富に栽培されている。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべてがそれを耕作する人々の所有するところのものである。アジアの桃源郷なのだ。人々は蔓草やイチジクや柘榴の陰で、抑圧のない自由な暮らしをしている。そしてプライバシーは、丈の高いよく刈り込まれた柘榴や杉の遮蔽物によって保たれている」。ひとつの国の中に、さまざまなレベルの豊かさや貧しさが同居していた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;バードの眼に映った日本の女は「小柄な日本の女は本当に自分を持て余しているように見える。足をほんの少ししか踏み出せない程かたく着物を巻き付け、高下駄を履いて内股でよろめいているし、頭に結った重い髷と巨大な帯の結び目のためにトップヘビーなので、今にも前のめりになりそうだ」。　欧米人が日本女性の堪えられぬ欠点とみなしたのは「お歯黒」と「お白粉」べた塗りである。お歯黒をした女の口は「まるで口を開けた墓穴のようだ」。女達もその醜さに気づいていて、若い女の中には、笑うとき黒い歯を隠そうとして、気の毒なくらい奇妙な具合に唇をゆがめている者もいた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;バードは日光で「私はこれほど自分の子供に喜びをおぼえる人々を見た事がない。子供を抱いたり背負ったり、歩くときは手を取り、子供の遊戯を見つめたりそれに加わったり、子供が居ないと真から満足することがない。他人の子供にもそれなりの愛情と注意を注ぐ」。バードの眼には、日本人の子供への愛は殆ど「子供崇拝」の域に達しているように見えた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;バードは「どの村にも鶏はたくさん居るが、食用の為にはいくらお金を出しても売ろうとはしない。だが、卵を産ませるために飼うと言うのであれば、喜んで手放す」。通訳の伊東が夕食用に鶏一羽を買ってきた。ところが一時間後に絞め殺そうとしたとき、持ち主の女が悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女は「自分がその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るのは忍びない」と言うのだった。その鶏は、卵を産むことで一家に貢献してくれた彼女の家族だったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;バードは秋田の師範学校を見学した時、校長に宗教について尋ねると、あからさまな軽蔑を示して笑った。「我々には宗教はありません。あなた方教養のおありの方々は、宗教は偽りだとご存じのはずです」との答えだった。バードは「破綻した虚構にもとずく帝位、人々から馬鹿にされながら、表面上は崇敬されている国家宗教、教養ある階級にはびこる懐疑主義、下層階級の上にふんぞり返る無知な僧侶。頂点には強大な専制をそなえ、低辺には裸の人夫を従え、最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実は頂くが、それを稔らせた木は拒否するひとつの帝国、至る所でこういった対照と不調和が見られる」。しかし、知識階級の宗教心の欠如は明治という新時代の特徴なのではなかった。「私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ、巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市である」。&lt;br /&gt;
(「逝きし世の面影」「日本奥地紀行」「Wikipedia」より)。(写真はイサベラ・バード)。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>維新の混乱</title>
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<description>御維新の昔を思うと今さら夢のようでございます。まるで大火事でもあって、江戸中が焼...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;御維新の昔を思うと今さら夢のようでございます。まるで大火事でもあって、江戸中が焼けていくのも同じで、大変な騒ぎでした。男の児は腹を切ること、女の子には自害の仕方を教えますが、大抵は大人が付いていて介錯をしてくれますから、ただにっこり笑って死んでいけばいいのです。私は父から短刀を渡され、本所割下水の叔母の嫁ぎ先へ立ち退きました。ちょうど上野の戦争の時かと思いますが、官軍は武器に困って、方々旗本屋敷に入っては、何かしらそういう道具を求め歩いていたらしゅうございまして、叔母の家にもいち早くやって来ました。　こちらは、どうしてやるものかと家中総がかりで、鉄砲や弾丸をお庭のお池の中へ放り込みました。どんどん踏み込んで持って行くものと思い込みましたので、大急ぎで隠したのでした。ところが官軍の中から二三人の主だった人が座敷に上がり込んで、叔母と対応していました。&lt;br /&gt;
叔母は女ながらにキリットしていました。談判は三時間位もかかったようです。私は、女中達が皆怖がって引っこんでしまいましたので、お茶を運んでそこへ出ました。官軍は煙草をのんでいたようでしたが、大変優しく丁寧に挨拶を致しました。黒い西洋服に、襟が白だったのが今も眼に残っています。みんな眉の濃い、せいの高い、怖いような人達でした。叔母は黒の五つ紋の正装で、九寸五分を懐にして、いかにも武士の妻という風でした。それこそ、何十人をでも相手に死に様を考えてかかった話ですから、女でも論判がよかったと言う評判でした。死を決してかかった様子は先方にも通じると見えまして、向こうもどこまでも丁寧でした。　鉄砲は今となっては徳川では使わないのですから、かえって厄介物くらいですが職務上自分の方で処置しないで、官軍に取られてしまったとあっては武門の恥辱になる。手続きをふんでお渡しいたしたいと叔母が仰いました。私はそばから「出せなんて仰っても、お使いになるから出せません。それでどんどん私達の味方をお撃ち遊ばすからいやでございます」。ところが、官軍は案外情けがあり礼儀もあって、むこうでも、それをわきまえていて、無理に召し上げて行くとは言いません。最初は少し変な顔をしていましたが、だんだん打ち解けて来て、「自分達は、そういう役でやってきたのではない。どういう物か、何処にあるか拝見するつもりで来たのだ」と申しましたが、叔母は「お見せすることもできません」と、とうとう見せませんでした。こんな穏やかなこととは思わず、慌ててみんな池に放り込んでしまったのですから、今更見せるわけにもいかなかったのでしょう。&lt;br /&gt;
そのうち日をきめて御宅といっしょに引き取りに来ますから、それまでそちらで御随意にお取締を願います、といって官軍は引き取りました。言わば、お隠しなさいと言わんばかりでした。官軍さんは鬼のように思っていたら好い人だ、こちらにも同情をもっていると思いました。そのあと、皆は早速お池に入って、鉄砲を取り出していました。着物を濡らすまいと思って、裾を捲っている姿がまだちらつきます。鉄砲は大きく重くって大変でした。池から放り出して池の淵にずっと干してありました。弾は箱に詰めましたが濡れているので、私が「始末が悪いわ」と言って叱られました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;叔母の屋敷も召し上げられまして、静岡の方へ移る事となりました。みんな公方様にお伴をする精神でも、静岡が人でいっぱいになってしまう程のお家来でした。何しろ八百万石の落ちぶれなのですから、めいめいで身の振り方を考えなければなりませんでした。私の父も、御維新後はまるで人が変わったようになりました。家柄だの身分だのという事はすっかりなくなってしまいました。今まで知っていたことさえも知らなくなって医者もしない、付き合いも一切やめて、ほんの素町人で終わりたいと申して名前も変えました。　やがて、浅草で薬屋を開くことにしました。　家伝の妙薬と言われた「金竜丸」という丸薬や止血散などを売っていた事を覚えています。私も馴れない手つきで、一生懸命丸薬の包みをこしらえたりしたものでした。　(「名残の夢・今泉みね」より&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>にんはお</dc:creator>
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<title>東京駅復原</title>
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<description>東京駅は明治三十九年(１９０６)に辰野金吾が設計したものです。オランダのアムステ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/02/17/800pxtokyo_station_restoration_ce_2.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;800pxtokyo_station_restoration_ce_2&quot; title=&quot;800pxtokyo_station_restoration_ce_2&quot; src=&quot;http://ninhao.cocolog-nifty.com/httpninhaococologniftycom/images/2012/02/17/800pxtokyo_station_restoration_ce_2.jpg&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;99&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
東京駅は明治三十九年(１９０６)に辰野金吾が設計したものです。オランダのアムステルダム中央駅を模したとされ、赤煉瓦造りのルネッサンス様式が取り入れられました。明治期に流行した赤煉瓦建築の中で、東京駅は最終かつ最大のものとされます。　工事に使われた煉瓦は、組立用が約８，３３２，０００個、化粧用は約９４４，０００個と言われます。　東京駅は大正十二年の関東大震災では殆ど被害を受けなかったのですが、昭和二十年五月二十五日の米軍の空襲で焼失しました。　八重洲口の木造駅舎も焼失して、東京駅は鉄路は残ったものの瓦礫の山でしたが、駅を閉鎖することなく営業を続けていました。私は東京駅を利用してましたが、煉瓦は崩れ、鉄骨は焼けて垂れ下がり、改札前のドーム下の広場は、ドームが焼け落ちた為に青天井でしたので、雨の日は傘をさして改札まで行ったのです。　昭和二十二年に、三階を撤去して二階建てとし、両側のドーム屋根も形を変えて復旧しましたが、 国鉄の上司が「みな駅の中を傘をさして歩いているではないか、すぐ屋根をかけろ」との命令で、四五年もてばいいと、応急処置で三角屋根を架けたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;昭和六十二年春、問題が起きました。中曽根首相は「民間活力導入」をうたい、山手線内側はすべて七階以上にせよと主張していました。民営化に踏み切った旧国鉄用地を中心に、オフィスビル建設を促進せよと言いだしたのです。膨大な赤字を抱えて民営化したＪＲ、その駅舎空間は「有効利用が当然」というムードが前提にあったのです。　東京駅が取り壊されるかもしれない。&lt;br /&gt;
政治力のある某有名建築家が超高層化のビル設計を提案し、大臣室にその模型が飾られていました。　「これは住民運動でやるしかないね」と言う事になって、高峰三枝子、三浦朱門等の著名人、文化人など３６０名が発起人となって「赤煉瓦の東京駅を愛する市民の会」として、ＪＲ本社と東京駅長に要望書を提出しました。また、１０万人署名をめざして、東京駅前や銀座ソニービル前で、街頭署名を行った。全国から署名が続々と集まり、わずか半年で、１００，１９８名を数えました。その後、石原都知事との合意によりＪＲ東日本は東京駅の復原を決めました。２００３年４月、東京駅は持主の同意を得て国の重要文化財に指定されました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;平成十一年、石原東京都知事が、東京駅舎を開業当時と同じに再建し、丸の内広場や皇居までの行幸通りを煉瓦敷きの歩道に整備する計画を発表しました。※２０１０年４月１２日に行幸通りが開通しました。駅舎の一部（一階部分）開業は２０１２年６月１０日で、全面開業は同年１０月です。　&lt;br /&gt;
復旧解体工事に伴い、屋根材に使用していた天然スレート６５，０００枚は産地でもある宮城県石巻市の業者に送られて、選別の上で清掃補修後倉庫に保管していたが、東日本大震災での津波に遭いＪＲ東日本は塩害を理由に使用を見送る意向を示した。&lt;br /&gt;
その後の調査の結果、６５，０００枚のうち４５，０００枚が使用可能と判断され、不足分をスペイン産で補う事としました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;東京駅は、大正十年(１９２２)原敬首相が暗殺され、昭和五年(１９３０)浜口雄幸首相が狙撃され翌年死亡するなど、歴史の舞台にもなりました。　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(「駅名で読む江戸・東京」「東京遺産」「Wikipedia」より)。(写真:東京駅復元工事)。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2012-02-17T11:15:56+09:00</dc:date>
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